『グレイテスト・ショーマン』評 過去の切断鑑賞後に感じた、物足りなさの原因は、歌パートで一気に物語を前進させられる感と、歌パートと歌パート間のぶつ切り感があるからか…過程(ストーリー)のおざなりというか、奥行きがないというか、子供騙しな成功譚という感じが否めない。ただ、この映画の単純明快さを、監督は自覚した上で作ったに違いないから、“ストーリーがシンプルすぎる”などと不用意に糾弾しすぎるのは却って自らの頭のシンプルさを露呈してしまうことになる。では、意図的なストーリーの置きざりの背後にあったのは何だったか。一つ言えるのは、コンプレックスの転換だろう。この映画の登場人物で、コンプレックスを抱えていない人はたぶんいなかったのでは。自分の貧しい出自や醜い容姿など。それを自分の中だけで閉じ込めておくと、複雑性はさらに増し、負のスパイラルに追いやられる。過去の延長線上に未来があるのは当然だから、これからの自分は、これまでの自分に規定されがち。ただ、そうではなく、この映画の登場人物たちは見事に、 過去の自分(コンプレックス)と決別した。未規定の自分に出会うこと。背後霊のようにつきまとうコンプレックス、その切断の機能を果たしたのが、音楽だった。この映画の、(大小かかわらず)before・afterの節点には、必ず音楽があった。このように、過去の切断により新しい自分と出会うんだよと、この映画が伝えたかったのだとすれば、過程(ストーリー)よりも、あくまで切断(=歌)による変身を大事にするのは、個人的には合点がいくのである。そして、コンプレックス(奇をてらうような複雑で難解)なストーリーにする必要性がないことも、同時に納得がいく。あなたの人生は、他人が考えている以上に簡単ではないが、あなた自身で考えている以上に複雑でもない、そんな温かいメッセージも込められている。2018.03.26 15:47
映画『スリービルボード』終わりなき判断の保留エンディングにケチをつける人がいるけど、それって、エンディングまでに丁寧に描かれてきたこの映画の主題を全否定することになってしまうよ。エンディングに対するモヤモヤ感というのは「結局犯人はだれやねん」ってことからくるものなんだと思う。ただ、個人的にはそんな風に、結果を求めがちな態度にこそ、今のこの社会の問題の根深さが現れているんじゃないかと思う。この映画で通底して描かれていたのは、意外とこの人は良い人とか、悪い人に見えるけどこんな側面もあるんだよということ。この人は◯◯な人だという判断が覆されてしまうから、どのキャラクターも憎み切ることができない。上記が何を意味するかといいうと、判断や決断ってそう簡単にしていいものなの?てかできるの?という、結末を求めたがる私たちに対する問いかけだ。ぼくらは、物事や人に対し、線引き(区別)しラベルをつけたがる。こいつは白か黒か、右か左か、友達か敵か。ラベル張りは、つまり結論づけだ。なぜなら、それは思考停止を意味するから。例えば、完全に黒なやつなんかいない。すべてはグラデーションだから、その灰色が白に近いか黒に近いかでしかない。だけど、それを白 or黒でラベルつけをしてしまう。一度そうしてしまえば、その人の中に潜む灰色の色調を見ることをやめてしまう。この複雑化し不確定な社会を、AorBで簡素化しようとする態度に、警鐘を鳴らすのがこの映画だ。最期のシーンで被疑者の家まで、ミルドレッドとディクソンが車で向かうシーンでのセリフにすべてが表れている。“あいつ(被疑者)を殺す?”“道々決めればいいよ”このように判断を延命させ続けること。=不毛な区別およびラベル張りから卒業すること。うまく言えないけど、これって難民問題とか、改憲 or護憲とか、昨今の社会的分断をリセットするヒントになり得るんじゃないかなとさえ思う。繰り返すけど“道々決めればいいよ”という言葉。それは、判断(エンディング)を保留(宙吊り)にすること。映画の形としての終わり方として、個人的には必然でありピッタリなエンディングだった!2018.02.25 02:55
映画「gifted」の自己決定権の無さとタイトルの意味この映画のテーマを、「天才の子どもに対する適切な教育とは?」みたいなものを想定する人たちが多いが、個人的にそれよりももっとコントラストをもって迫ってきたものは、「子どもの決定権のなさ」である。これはありきたりな言い方をすれば、生まれてくる子どもは親(生まれてくる環境)を選べない、的な話。この作品は思った以上に、少女・メアリーの天才性よりも、少女を取り巻く大人たちに焦点が当てられている。法廷、育ての親である叔父(フランク)と少女の先生が愛を育む地元のバーや自宅のベッドなど、少女には見えない場所・少女とは似つかわしくない場所でストーリーが展開される。そして、それらはいささか滑稽であり、少女・メアリーのことが気の毒で仕方なくなるほどだ。例えば、親権争いという大人の事情に勝手に振り回されるメアリー。(自殺について悪くいうつもりはないが)勝手に母親に先立たれ、実の父からはなんの心配もされず放置・無視される。しかも、その事実を勝手に祖母(イブリン)の法廷闘争のダシに使われ、さらに叔父が容赦なくメアリーにその事実をありのまま伝える。お前の実父は、お前を見捨てた、と。他にも、大人たちが作った司法制度に振り回されるメアリー、子どもを所有権扱いする司法制度。ずっと一緒に暮らすことを叔父に約束してもらいながらも、急に祖母が現れ、親権争いの妥協案として里親に出され、かと思えば結局は元の叔父と暮らせることに。まじメアリーの翻弄され具合が半端ない。決定権を剥奪された子ども。自分(=メアリー)の意思(叔父のフランクと生活したい)は司法制度に邪魔をされる。というか、そもそもメアリーの意思が法廷の場で尊重されるシーンがない。生まれた時、すでに存在していたシステム(司法制度をはじめとした諸制度や慣習)に便乗する以外のことができない。つまり、あらかじめ決められた環境に身を投じられる以外の方法を持たない。親も選べなければ、人種も国も、自分の才能もだ。天才的な数学センスも、彼女自身が選び取ったわけではない。ただ、この映画のなかに救いがあるのも確かだ。ではその救いとは何か。そこで映画の表題「gifted」の意味につながっていく。Giftedの意味物語終盤、メアリーの祖母・イブリンは、超難問を解き明かした生前の娘(メアリーの母)の遺言的論文と、娘直筆のメモを目にし涙を流す。これが「gifted」の象徴的なシーンである。このとき、イブリンはふたたび娘を授かったのだ。いわば、遅れてやってきた出産。娘が生きていたときは、スパルタ的な英才教育を施し、とてもじゃないが良好な親子関係とは言い難かった。しかし、論文を目にしたとき、初めてそして本当の意味で、イブリンは(今は亡き)娘と出会うのだ。そして、そのきっかけを生んだのは、まぎれもなくメアリーなのだ。このように、歴史は過去から未来へトップダウン的に常時一方向に流れているように見えるが、実は「gift=授かり」は遡行するのだ。産み落とされた時点で「gift」であり、あらかじめ決定された環境に諦めつつ生きていくだけでも、意図せずして誰かにとっての「gift」になり得るという希望がある映画だと思う。そして、そのgiftは時に世代を遡ったり、海を渡ったり、文化圏を越境したりする。2018.01.22 16:07
映画『メッセージ』評、そこから展開して考えた「未来を記憶すること」の可能性についてかったるい前座(導入文章や映画紹介)は抜きにしていきなりレビュー突入。この作品は、未来予知に必ずしも力点が置かれてるわけじゃない気がする。2017.12.03 06:20
沢木耕太郎の言葉から深夜特急シリーズで有名な沢木耕太郎が映画にまつわるあるエッセイでこう話していた。 『大人は過去を、子供は未来を映画に投影している。年をとるにつれ未来への夢よりも、過去の記憶の方が意味を持つようになる。』 なるほど。過去が豊富な大人は映画に出てくるキャラクターに過去の自分を重ね合わせることができる一方、子供はもともと過去(経験と言い換えてもよいだろう)の絶対量が少ないため、過去の投影は難しい。だから、アクションものや戦隊もののヒーローに、自分の未来、将来像を重ねる。 沢木氏が言うように、大人は思い出を大事にしすぎる傾向があるのかもしれない。それは、同時に今の自分を、過去によって規定させてしまうことをも意味する。かわいいかわいい自分の過去をひたすら踏襲する先になにがあるのだろう。「敷かれたレール」という言葉をよく聞くけど、敷”かれている”のではなく、実は自分で敷いているのだと思う。過去の自分によって無意識的に。 人間、人生のどこかでそれまでの過去の自分とは何の脈絡もない「意味のわからないこと」をするべきなんじゃないかってたまに思う。過去の自分を裏切るために。過去の自分に現在の自分を縛り付けられないために。2017.02.21 13:59
演じることについて(3)演技の多重性 前回は「二重の演技」と題して、実生活上と舞台上の両方で演技する役者について書いてみたんだけど、実際はさらに複雑だ。役者の意識は、もはや二重どころではない多重構造になっていると思う。どうしてなのかっていうと、役者は舞台上で自らが演じる役柄の実生活上の演技(前回の投稿でいう”やくしゃ”)もしなければいけないからだ。 現在興行中の『ロミオとジュリエット』のロミオ役を演じる大野拓朗を例にあげる。大野拓朗はロミオを演じるが、舞台上でさらに様々なロミオを演じなくてはいけない。『ロミオとジュリエット』というストーリーは、ぼくらからしたら空想にすぎないのだけれど、ロミオ自身にとっては実生活そのものだ。したがって、実生活でぼくらが誰(家族、友人、職場の人間など)と居るかどうかで一々言動を変える現象は、ロミオ自身にも当てはまる。つまり、大野拓朗は①ジュリエットといるときのロミオ②友人と過ごすときのロミオ③家族といるときのロミオなど様々なロミオを舞台上で演じなくてはいけない。 ぼくたちは分身をひとり、ふたり作るだけでも気苦労を起こすが、役者はそれに見境がない。役者(大野拓朗)は自分の分身(ロミオ)に、さらに分身(ジュリエットといるときのロミオ、◯◯といるときのロミオ・・・・)を作らせなくてはいけない。分身に分身を重ねる役者にとって、自分とは何だろう。役者が自らを一人称「わたしは」を使用する場合、それはロミオを指す場合もあれば、歴史上の偉人かもしれないし、殺人犯であるかもしれない、いやはや本当の意味での自分(戸籍上の自分)を指す場合もあるだろう。そうやって、何者かを演じる限り果てなく増殖する自分を、役者はどう捉えるのだろう。2017.02.13 03:29
演じることについて(2)二重の演技 ぼくらは毎日、無意識的にではあるけれど何らかの役を演じている。例えば職場の自分と、仲のよい友だちと居る自分とでは、物理的には同じ自分であるが精神的には違う自分が存在している。また、「職場」で上司と話すのと、「飲み会」で上司と話すのでは、同じ人物が相手でも状況や場所によって、やはり自分の性質は異ってくる。(職場と比べ、飲み会という場の方が上司に対しリラックスして接している自分がいるはず) そうやって、役者を本業としないぼくら一般人でさえも、誰しもが自分が属するコミュニティの数だけ、あるいは自分が居合わせた状況の数だけ、自分の分身を作り日々何かを演じている。 それだけでも何だか奇妙に感じられるけれど、本業の役者はそこにさらに演技を重ねる。 生まれながらにして、と言ってもよいほど人間だれしもが「やくしゃ」であり、それはこの社会で生き抜いていくためには、たぶん避けられないことでもある。 *この記事でぼくは便宜上、この現実社会から追放されたり仲間はずれをされないために誰もがほぼ例外なく行う演技や小芝居(自分と対峙する人物が誰であるのかによって、自分の言動をその都度変えること)をする人を「やくしゃ」と言い、映画や舞台上で行われる多くの人が一般的に想像するいわゆる演技をする人を「役者」と言う。 例えば、小栗旬であっても後輩俳優を引き連れている時と、蜷川幸雄と対峙していた時とでは、言動に差が出ていたはずだ。その点では、というのは、つまり現実社会をそつなく円滑に生き抜いていくために「やくしゃ」を演じるという点では、ぼくら一般人と変わりない。ただ、「役者」はそこ(=「やくしゃ」である自分)に、さらに上書きするように舞台上やカメラの前で演技を重ねる。つまり、小栗旬は「やくしゃ」であり「役者」でもある。逆にぼくら一般人は「やくしゃ」ではあるが「役者」ではない。 ぼくが、演じるということについてむずがゆさを感じたのはそれだった。「やくしゃ」が「役者」をする。普段の私生活で何かしら演じているのに、カメラの前で舞台で、さらに演じるのか〜と感嘆してしまった。現実世界と、そして映画や舞台などのフィクショナルな仮想世界とで、二重に演技を重ねる「役者」に、ちょっと驚いたし尊敬した。それが、ぼくなりに感じた二重の演技の意味です。2017.02.03 05:34
演じることについて(1)ぼくは単純に映画やテレビドラマとの接触回数が多いばかりに、<演技>というものを機械的にそれらと結びつけ過ぎていた。考えてみれば当たり前なのだけれど、演技というものは何も映画やドラマに出演する役者の専売特許ではない。<演技>を、肉体を駆使したパフォーマンスアートという広い枠組みで捉えてみれば、演劇はもちろん、オペラやダンス、音楽、バレエ、大道芸、漫才など実に様々なものを含んでいる。 そんな当然のことを改めて気づかされたのは、先日の宝塚歌劇鑑賞がきっかけだった。宝塚ファンからは怒られるかもしれないが、観劇中ぼくは思わず笑いをこぼしてしまうことが何度かあった。ちなみに、ぼくが見ていたのはコメディ作品ではなかったし、また笑みを浮かべたときは、会場に笑いが起きるような場面ではなかった。むしろ、気持ちの高ぶりによって身体を震わせるように舞う役者の演技と、それに共振する観客の熱気とで、会場のボルテージが最高潮になろうとしている瞬間に、ぼくは不意に笑みをこぼしてしまったのだ。今になって振り返ると、自分が思わず笑みをこぼしてしまった要因は、そこにあったと感じる。自己(ここでいう自己は、作品で演じる役名でも、普段の役者活動で使用している通名(ペンネーム的なもの)でもなく、自分の戸籍上の本名に付随するその人自身の性格や歴史)をかなぐり捨てるようにして、力強い眼つきや流麗とした声色と立ち振る舞い、そして豪奢な衣装やメイクで、舞台上に自分の肢体を捧げる役者たち。 つまり、ぼくの笑いは、これら大袈裟とも言えるほどの、溢れんばかりの役者の感情表現を受けてのことだった。誤解を恐れず言うのであれば、あのとき全てが過剰だった。ぼくには、顔がちぎれるくらいの笑顔や、顔がしおれて枯れてしまいそうな悲しい顔はできないし、リズムに合わせて身体を揺らしながら誰かの名前を歌うようにして呼びかけたこともないし、そんな人を見かけたこともなかった。今まで自分が享受してきた他者からの感情表現を、圧倒的に超越する演技だったから、ぼくの脳はそれをうまく飲み込むことができず不意に笑みがこぼれてしまったのだと思う。(彼女ら役者の人たちは、「バイバイ」という何気ない台詞ひとつにしても表情や身振り手振り交えて全身全霊で「バイバイ」を表現する。普段ぼくらは「バイバイ」と言う事に本気を出すはずもなく、ぶっきらぼうにそれを言っている身にしたら、彼女らのはじけんばかりの感情表現に衝撃を受けるのは当然ともいえる)だから、笑みの正体は、役者の感情表現がぼくの脳にオーバードーズされ、処理能力の限界を超えてしまったときに起こるコンピューターのバグみたいな反射運動だったのだと思う。2017.01.31 13:35
二度目の宝塚歌劇先日、宝塚歌劇月組公演『グランドホテル/カルーセル輪舞曲』を見てきた。自分にとって四年ぶり二度目の宝塚鑑賞であったのだけれど、今回の方が随分感動した。 男役トップスター(宝塚歌劇だからもちろん女性)は、もはや男でも女でもない別種の性を確立していた。そして、舞台袖の目立たないところで踊っている成長過程の新人とみえる役者が、眼と表情、発声、両手足、自分が持ち得るすべての表現手段を動員し、まるで自分が主役かのように演じる様子は、例えスポットライトが当たらなくとも寸分の手抜きを許さない覚悟と気迫を感じ、社会の隅で生ぬるい生活を送っているぼくの心を強く打った。 ところで、今回の公演で目についてしまったのが、前の座席で団体客として観劇に来ていた小学校3、4年生と思しき子どもたちの落ち着きのなさである。公演途中でトイレにでも行くのか席を外したり、退屈そうに身をよじらせたり、友達のオペラグラスを奪いとろうとしたり。 といっても、ぼくはここで小学生のマナーの悪さを糾弾したいわけでは全くない。 自分自身、小学生のころ学校行事として、ある舞台を見にいった記憶があるけど、今では何の演目だったのかは覚えていないし、舞台よりも脇に掲げられた時計を気にしていた気がするからだ。だから、ぼくは彼ら小学生を生意気に説教できるほどの人間ではないし、何より自分がかつてそうだったから目の前の小学生らの気持ちが分からなくもない。そして、この観劇体験が彼ら小学生の脳裏になんらかの爪痕として残され、今すぐでなくとも後になって何かが花開くのではないかと信じていたから、自分なりに彼らを温かい目で見守っていたつもりである。 むしろ、ぼくが、小学生らが退屈そうにする様子を見て疑問に思ったのは、どうして年齢が若いほど(一般には、子どもほど感受性が高いと言われているにも関わらず)この種の体験に感銘を受けにくいのかである。 というか感受性について言えば、小学生のころは人前で話すことが平気だったのに、段々と歳を重ねるにつれ、それに恥じらいや緊張が伴ってくるのは、たぶん他者の視線を過敏に”感じる”ようになったから。その点では、大人になるほど感受性が高まると言えてしまう気がする(逆に、幼いころ人前で緊張しなかった理由は、他者の視線に”鈍感”だったからとも言える。 また、大人になると空気を読むことを覚えるのも、大人の感受性の高さを示す証左になりそう。)大人の方が感受性豊かなのかな、難しい。脳の構造とか、子どもの教育に詳しい人とかに意見を聞いてみたいね。2017.01.23 04:49
ある映画をみて感じたこと先日、友人に誘われてある映画を観に行ってきた。1976年にデビッドボウイ主演で製作された『地球に落ちて来た男』という作品。デビッドボウイが亡くなってから1年、その追悼記念として神戸のアートビレッジセンターにて再上映されたのだ。 次に、本来であればこの映画のストーリーを、結末は明かさない程度にここで紹介することが、映画をわざわざこのような場所で取りあげる上での定石だと思うのだけれど、そうすることが何とも難しい作品だったのである。(それは、もちろんぼくの理解力に問題があった可能性もあるのだけれど) つまり、二時間強ある尺のなかから、一筋の通底した主題や物語性、この映画(監督)が意図するメッセージを汲み取ることが難しい断片的な映画だったのだ。正直、この映画を見終えた際に「半端なかったー、超よかった」と感じる人は、よほどデビッドボウイに肩入れしている人もしくは独特な価値観を持っている人に限られてしまうのではないかと思ってしまう。だから、基本的にこの映画を友人に快くおすすめすることはできない。 では、なぜそんな作品をこのブログで取り上げたのかというと、あることに不意に気付かされたからである。 それは、あらゆることに対し過剰に意味を要求してしまう自分の存在である。 いまの社会は意味が支配していると感じる。ビジネス(仕事)でも受験勉強でも、就職活動でも何でもいいけれど、まず目標を設定しそれを実現するための行動が基本的には「意味がある」とされる。裏返せば、目標実現につながらない行動は、「意味がない」とされる。 ぼくもそのような思考を持っていた。 ただ、一方でこういった社会に窮屈さを感じている人がいることもまた事実であると思う。そして、そんな意味が支配する社会から逃避することは、さして悪いことでもないし、むしろ良い場合もあると思うのだ。意味が支配する社会では、道草すること(目標実現につながらない行動)はあまり褒められたものではない。ただ、道草には思いもよらない変化や成長を与えてくれたりする効果があることも広く認知されるべきだと思う。 少し脱線してしまったようにみえるけど、デビッドボウイの映画をみてぼくが新たに思えたことは、「意味がなくたっていいじゃない」というような、ゆとりを持つことの重要性だ。たぶん、ぼくは無意識的に、映画とは人の心を動かす・人生をかえる・社会問題を告発するものだと、上映前からどこかで期待を抱きすぎていたのだと思う。そんなスタンスは捨て去って、「この世界、意味なんかなくて当然。もし意味があったのなら御の字」というようにもっと肩の力を抜き、偶然の出会いに心を開いておく余裕があってもいいんじゃないかって。もちろん、道草ばっかはしてられないのはわかってる。意味の追求か、それの放棄。どちらか一辺倒になるのでなく、両輪持っていたい。2017.01.17 14:50
格差の末に先日、日経新聞にこんなインタビュー記事が出ていた。その中で、「反グローバルのうねりが出ています」という記者の一言に対し、教授は以下のように述べた。「英国の欧州連合(EU)離脱決定やトランプ氏の当選は、所得の二極化が背景にある。トップ層はいつまでも金持ちなのに、中産階級より下はどんどん所得が下がっている。昔はアメリカンドリームで成功するチャンスがあったが、今は少なくなっている」 僭越ながら、ぼくはこの発言に対し物申させていただく。 まず、この短い発言の中でこの教授は2つ過ちを犯しているとぼくは思っている。 1つは、アメリカンドリームが以前よりも難しくなってきているという発言。もう1つは、所得格差拡大の要因を、アメリカンドリームの減少(ドリームの実現困難性の高まり)としてしまっていること。 まず前者について。ぼくは、教授と真逆の考えで、むしろアメリカンドリームは以前より、実現しやすくなってきていると感じている。例えば、InstagramやYoutubeなどのSNSから生まれた芸能人は最近よく見かける。また、無名でも実力さえあれば、自分の小説やアート作品などを発表できるプラットフォームがもう既に整備されている。そこから生まれたスターももういるはずだ。従って、社会構造の進化によって、昔より自分の声を不特定多数のだれかに届けやすくなり、才能と努力がある人にはしかるべき恩恵が報われる社会が一部では実現しつつあると思っている。だから、アメリカンドリームの門戸は昔より開かれたと考えている。(というかそうであってほしいと信じてるところもあるんだけど。) 後者(所得格差の原因を、アメリカンドリームの減少としてしまっていること)について。これは超シンプル。この教授はアメリカンドリーマー減少を半ば残念がっているが、巨万の富を得てしまうアメリカンドリーマーが増えてしまえば、さらに格差は拡大しちゃうでしょ。 本当の原因は、昔だったら、普通に働いていれば普通に享受できていたであろうリターンを、今の時代は受け取りにくくなっていることに原因があると思う。アメリカンドリームの成功とかそんなダイナミックな話でなく、国民の多数を占めるであろう、これといって秀でた能力がないもしくはそれに気づいていない人々の、一歩の前進に対しその一歩分だけの対価を払うこと。例え資本主義社会でも「どうせ頑張っても無駄だ。」が蔓延すれば、社会主義の悪い部分として語られる典型パターン「頑張らなくても給料もらえるから、頑張らなくていいや。」と、ほぼ同等な状況に堕してしまう。このように過剰格差容認資本主義の末は、社会主義的怠惰が待ち受けているのではないかと危惧している。 2017.01.05 09:15
「大人」は何も表さない。「二十歳以上」という意味以外のなんの形容にもならない。年長者への特別な敬意など必要ない。あくまで個人的見解に過ぎないけど、わりかし本気でそう思っている。 ぼくは、頻繁に公共の図書館へ足を運ぶが、新聞コーナーに「盗難はおやめください」という趣旨の張り紙が貼ってあり、雑誌置き場もところどころで「今月の『◯◯12月号』は所在不明になりました」と遠回しに盗まれた旨を示す札が貼られていたりする。ぼくはその図書館で新聞を読む若者の姿を見たことがないし、盗まれた雑誌は中年向けの雑誌がほとんどだ。というか、そもそもティーン向けの雑誌はその図書館には置いていない。つまり、これらは大人による犯行だと断定してもよいとおもう。これに限らず、「自分は、人の悪いところだけを見ようとしているのではないか」と自己嫌悪に陥りかねないほど、この手の大人のマナー違反は枚挙にいとまがない。 就職活動や接客業をしてみたりとここ一年、二年は多くの大人と出会う機会があった。尊敬できる大人に出会えた一方で、大人に幻滅することもあった。まあ常識的に考えればそうだ。良い大人もいれば悪い大人がいて、悪い大人もいれば良い子どももいる。おっさんやおばさんになっても新聞を盗んだり店員にキレたりする輩もいれば、10代で組織を立ち上げ社会問題の解決に取り組む人もいるわけで。もはや、年齢に大した意味は持たないのではないかと思う。だから、ぼくは20歳を境にした「大人と子ども」という括り自体に懐疑的になり、「大人だから」「目上だから」という大した根拠も中身もない理由で特別に敬意を表する必要はないと思った。 ただ、ぼくは年長者に敬意を表さない訳ではない。年長者にも敬意を表するが、それは「年長者だから」という理由でなく、敬意はひとりひとりの人間すべてに表するべきだと思っているからだ。だから、年齢や役職が下の人に対しても尊敬の念を持って対峙すべきだと思う。また、相手が年上だからといって過剰にへりくだる必要はないと思う。ある一定以上の敬意が担保されているのであれば、年上に対する敬意の度合いと年下に対する敬意の度合いは同等で構わないと自分は思っている。2017.01.03 14:17