演じることについて(2)

二重の演技  


ぼくらは毎日、無意識的にではあるけれど何らかの役を演じている。例えば職場の自分と、仲のよい友だちと居る自分とでは、物理的には同じ自分であるが精神的には違う自分が存在している。また、「職場」で上司と話すのと、「飲み会」で上司と話すのでは、同じ人物が相手でも状況や場所によって、やはり自分の性質は異ってくる。(職場と比べ、飲み会という場の方が上司に対しリラックスして接している自分がいるはず)


 そうやって、役者を本業としないぼくら一般人でさえも、誰しもが自分が属するコミュニティの数だけ、あるいは自分が居合わせた状況の数だけ、自分の分身を作り日々何かを演じている。


 それだけでも何だか奇妙に感じられるけれど、本業の役者はそこにさらに演技を重ねる。 


 生まれながらにして、と言ってもよいほど人間だれしもが「やくしゃ」であり、それはこの社会で生き抜いていくためには、たぶん避けられないことでもある。

 *この記事でぼくは便宜上、この現実社会から追放されたり仲間はずれをされないために誰もがほぼ例外なく行う演技や小芝居(自分と対峙する人物が誰であるのかによって、自分の言動をその都度変えること)をする人を「やくしゃ」と言い、映画や舞台上で行われる多くの人が一般的に想像するいわゆる演技をする人を「役者」と言う。 


例えば、小栗旬であっても後輩俳優を引き連れている時と、蜷川幸雄と対峙していた時とでは、言動に差が出ていたはずだ。その点では、というのは、つまり現実社会をそつなく円滑に生き抜いていくために「やくしゃ」を演じるという点では、ぼくら一般人と変わりない。ただ、「役者」はそこ(=「やくしゃ」である自分)に、さらに上書きするように舞台上やカメラの前で演技を重ねる。つまり、小栗旬は「やくしゃ」であり「役者」でもある。逆にぼくら一般人は「やくしゃ」ではあるが「役者」ではない。


 ぼくが、演じるということについてむずがゆさを感じたのはそれだった。「やくしゃ」が「役者」をする。普段の私生活で何かしら演じているのに、カメラの前で舞台で、さらに演じるのか〜と感嘆してしまった。現実世界と、そして映画や舞台などのフィクショナルな仮想世界とで、二重に演技を重ねる「役者」に、ちょっと驚いたし尊敬した。それが、ぼくなりに感じた二重の演技の意味です。

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