演じることについて(3)

演技の多重性

 前回は「二重の演技」と題して、実生活上と舞台上の両方で演技する役者について書いてみたんだけど、実際はさらに複雑だ。役者の意識は、もはや二重どころではない多重構造になっていると思う。


どうしてなのかっていうと、役者は舞台上で自らが演じる役柄の実生活上の演技(前回の投稿でいう”やくしゃ”)もしなければいけないからだ。 


現在興行中の『ロミオとジュリエット』のロミオ役を演じる大野拓朗を例にあげる。大野拓朗はロミオを演じるが、舞台上でさらに様々なロミオを演じなくてはいけない。


『ロミオとジュリエット』というストーリーは、ぼくらからしたら空想にすぎないのだけれど、ロミオ自身にとっては実生活そのものだ。したがって、実生活でぼくらが誰(家族、友人、職場の人間など)と居るかどうかで一々言動を変える現象は、ロミオ自身にも当てはまる。


つまり、大野拓朗は①ジュリエットといるときのロミオ②友人と過ごすときのロミオ③家族といるときのロミオなど様々なロミオを舞台上で演じなくてはいけない。


 ぼくたちは分身をひとり、ふたり作るだけでも気苦労を起こすが、役者はそれに見境がない。役者(大野拓朗)は自分の分身(ロミオ)に、さらに分身(ジュリエットといるときのロミオ、◯◯といるときのロミオ・・・・)を作らせなくてはいけない。分身に分身を重ねる役者にとって、自分とは何だろう。


役者が自らを一人称「わたしは」を使用する場合、それはロミオを指す場合もあれば、歴史上の偉人かもしれないし、殺人犯であるかもしれない、いやはや本当の意味での自分(戸籍上の自分)を指す場合もあるだろう。そうやって、何者かを演じる限り果てなく増殖する自分を、役者はどう捉えるのだろう。

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