映画「gifted」の自己決定権の無さとタイトルの意味


この映画のテーマを、「天才の子どもに対する適切な教育とは?」みたいなものを想定する人たちが多いが、個人的にそれよりももっとコントラストをもって迫ってきたものは、「子どもの決定権のなさ」である。これはありきたりな言い方をすれば、生まれてくる子どもは親(生まれてくる環境)を選べない、的な話。

この作品は思った以上に、少女・メアリーの天才性よりも、少女を取り巻く大人たちに焦点が当てられている。法廷、育ての親である叔父(フランク)と少女の先生が愛を育む地元のバーや自宅のベッドなど、少女には見えない場所・少女とは似つかわしくない場所でストーリーが展開される。

そして、それらはいささか滑稽であり、少女・メアリーのことが気の毒で仕方なくなるほどだ。

例えば、親権争いという大人の事情に勝手に振り回されるメアリー。(自殺について悪くいうつもりはないが)勝手に母親に先立たれ、実の父からはなんの心配もされず放置・無視される。しかも、その事実を勝手に祖母(イブリン)の法廷闘争のダシに使われ、さらに叔父が容赦なくメアリーにその事実をありのまま伝える。お前の実父は、お前を見捨てた、と。

他にも、大人たちが作った司法制度に振り回されるメアリー、子どもを所有権扱いする司法制度。ずっと一緒に暮らすことを叔父に約束してもらいながらも、急に祖母が現れ、親権争いの妥協案として里親に出され、かと思えば結局は元の叔父と暮らせることに。まじメアリーの翻弄され具合が半端ない。

決定権を剥奪された子ども。自分(=メアリー)の意思(叔父のフランクと生活したい)は司法制度に邪魔をされる。というか、そもそもメアリーの意思が法廷の場で尊重されるシーンがない。生まれた時、すでに存在していたシステム(司法制度をはじめとした諸制度や慣習)に便乗する以外のことができない。

つまり、あらかじめ決められた環境に身を投じられる以外の方法を持たない。親も選べなければ、人種も国も、自分の才能もだ。天才的な数学センスも、彼女自身が選び取ったわけではない。

ただ、この映画のなかに救いがあるのも確かだ。ではその救いとは何か。そこで映画の表題「gifted」の意味につながっていく。

Giftedの意味


物語終盤、メアリーの祖母・イブリンは、超難問を解き明かした生前の娘(メアリーの母)の遺言的論文と、娘直筆のメモを目にし涙を流す。これが「gifted」の象徴的なシーンである。
このとき、イブリンはふたたび娘を授かったのだ。いわば、遅れてやってきた出産。

娘が生きていたときは、スパルタ的な英才教育を施し、とてもじゃないが良好な親子関係とは言い難かった。しかし、論文を目にしたとき、初めてそして本当の意味で、イブリンは(今は亡き)娘と出会うのだ。そして、そのきっかけを生んだのは、まぎれもなくメアリーなのだ。

このように、歴史は過去から未来へトップダウン的に常時一方向に流れているように見えるが、実は「gift=授かり」は遡行するのだ。産み落とされた時点で「gift」であり、あらかじめ決定された環境に諦めつつ生きていくだけでも、意図せずして誰かにとっての「gift」になり得るという希望がある映画だと思う。そして、そのgiftは時に世代を遡ったり、海を渡ったり、文化圏を越境したりする。

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