映画『スリービルボード』終わりなき判断の保留

エンディングにケチをつける人がいるけど、それって、エンディングまでに丁寧に描かれてきたこの映画の主題を全否定することになってしまうよ。

エンディングに対するモヤモヤ感というのは「結局犯人はだれやねん」ってことからくるものなんだと思う。ただ、個人的にはそんな風に、結果を求めがちな態度にこそ、今のこの社会の問題の根深さが現れているんじゃないかと思う。

この映画で通底して描かれていたのは、意外とこの人は良い人とか、悪い人に見えるけどこんな側面もあるんだよということ。この人は◯◯な人だという判断が覆されてしまうから、どのキャラクターも憎み切ることができない。

上記が何を意味するかといいうと、判断や決断ってそう簡単にしていいものなの?てかできるの?という、結末を求めたがる私たちに対する問いかけだ。ぼくらは、物事や人に対し、線引き(区別)しラベルをつけたがる。こいつは白か黒か、右か左か、友達か敵か。

ラベル張りは、つまり結論づけだ。なぜなら、それは思考停止を意味するから。例えば、完全に黒なやつなんかいない。すべてはグラデーションだから、その灰色が白に近いか黒に近いかでしかない。だけど、それを白 or黒でラベルつけをしてしまう。一度そうしてしまえば、その人の中に潜む灰色の色調を見ることをやめてしまう。

この複雑化し不確定な社会を、AorBで簡素化しようとする態度に、警鐘を鳴らすのがこの映画だ。最期のシーンで被疑者の家まで、ミルドレッドとディクソンが車で向かうシーンでのセリフにすべてが表れている。

“あいつ(被疑者)を殺す?”
“道々決めればいいよ”

このように判断を延命させ続けること。=不毛な区別およびラベル張りから卒業すること。うまく言えないけど、これって難民問題とか、改憲 or護憲とか、昨今の社会的分断をリセットするヒントになり得るんじゃないかなとさえ思う。

繰り返すけど“道々決めればいいよ”という言葉。それは、判断(エンディング)を保留(宙吊り)にすること。映画の形としての終わり方として、個人的には必然でありピッタリなエンディングだった!

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