映画『メッセージ』評、そこから展開して考えた「未来を記憶すること」の可能性について
かったるい前座(導入文章や映画紹介)は抜きにしていきなりレビュー突入。
この作品は、未来予知に必ずしも力点が置かれてるわけじゃない気がする。
あの円環型表意文字や主人公のフラッシュバック、セリフからも導かれるように、時制の消滅と、過去と未来の同一化(区別のつかなさ)は、未来を称揚するためでなく、過去と未来をフラット化するための試みである。
それによって、相対的に浮かび上がるのが、「現在」だ。しかしそれは、自己啓発界隈で最近よく見かける「未来なんて分かるわけないから今この一瞬を精一杯生きるしかないんだ」といった”点”形的なメッセージでなければ、「過去の延長線上に未来があるのだから計画的に現在を生きなさい」といった”直線形”的なメッセージでもない。
つまり、この作品は過去と未来の均質化によって、「現在」を相対的にポップアップさせることで、「現在」という概念さえも形骸化させるという逆説を生む。
どういうことかというと、概念(=意味)はすべて差異から生まれるものだから、「現在」しか存在しなくなると…つまり過去や未来という比較対象を意図的に失わせることで、「現在」という概念自体の存在基盤を脆弱にする。
結果的に、この作品は、「現在」からの離脱をも説いてる。プラットフォーム自体を疑え、と。では、まず何を疑うのか。それは、第一に「過去~現在~未来」という時制だが、その次は「自分の記憶」だ。
記憶は、当然だが過去と強固な結びつきを持つ。普通に考えると、ぼくらは過去を記憶することはできても、未来は記憶できない。未来はまだ来ていないし、分からないから。
ただ、この作品の主人公の彼女は、宇宙人の表意文字を習得するうちに、だんだん未来が見えるようになっていき、過去のデータベースであるはずの記憶に、”未来”が交じり始める。
ここで、SF特有の非現実感が苦手な人は、「こんなのありえねーだろ、未来なんか記憶できるかボケ」と突き放してしまいそうだが、それにはまだ早い。
というか、そんな彼らも知らず知らずのうちに、未来を内在化させている。
記憶というものが、いかに曖昧であるかはぼくがここで改めて言わなくとも、経験として、あるいはどこかの記事で見た人はいるはずだ。記憶は捏造できるし、ときに自分で自分を騙す(例:”思い込み”のようなもの)ことさえある。
では、ぼくらはいつ、どのタイミングで、「未来を記憶しているのか」。
それは、日々のニュースで見る、家族を殺された被害者であったりもすれば、ドキュメンタリー番組で見る差別や貧困に苦しむ人だったり、はたまた週刊誌に激写されるようなプレイボーイだったり、カンブリア宮殿にでてくる敏腕経営者だったりする。
この例でぼくが意図しているのは、なにか。それは、ぼくらは絶えず、だれかの人生を垣間見ているということだ。そして、彼らは、自分自身の将来に起こりうるかもしれない未来像であり鏡である。
整理すると、ぼくらは、他者の体験を無意識的に、自分に反射させている(内在化している)。要は、他者の感情や経験を、一旦、自分に置き換えている。
それは、自分の未来を投影させているといえないだろうか。ニュースでみたあの人のように、将来自分もなるかもしれない、と。
世間には既視感という言葉がある。ぼくらの身の回りには、ぼくらの未来で溢れている。だから、ぼくらはどんな未来がこようと基本的には驚かない。すでに他者の経験をもってして自分の未来をシミュレートしているからだ。
スクリーンの中ではなく、現実世界を生きるぼくらも、そうやって自分の過去と、自分の未来の記憶を交ぜ合わせながら生きている。
0コメント