ある映画をみて感じたこと

先日、友人に誘われてある映画を観に行ってきた。

1976年にデビッドボウイ主演で製作された『地球に落ちて来た男』という作品。デビッドボウイが亡くなってから1年、その追悼記念として神戸のアートビレッジセンターにて再上映されたのだ。 


 次に、本来であればこの映画のストーリーを、結末は明かさない程度にここで紹介することが、映画をわざわざこのような場所で取りあげる上での定石だと思うのだけれど、そうすることが何とも難しい作品だったのである。(それは、もちろんぼくの理解力に問題があった可能性もあるのだけれど)


 つまり、二時間強ある尺のなかから、一筋の通底した主題や物語性、この映画(監督)が意図するメッセージを汲み取ることが難しい断片的な映画だったのだ。


正直、この映画を見終えた際に「半端なかったー、超よかった」と感じる人は、よほどデビッドボウイに肩入れしている人もしくは独特な価値観を持っている人に限られてしまうのではないかと思ってしまう。だから、基本的にこの映画を友人に快くおすすめすることはできない。 


 では、なぜそんな作品をこのブログで取り上げたのかというと、あることに不意に気付かされたからである。


 それは、あらゆることに対し過剰に意味を要求してしまう自分の存在である。 


 いまの社会は意味が支配していると感じる。ビジネス(仕事)でも受験勉強でも、就職活動でも何でもいいけれど、まず目標を設定しそれを実現するための行動が基本的には「意味がある」とされる。裏返せば、目標実現につながらない行動は、「意味がない」とされる。 ぼくもそのような思考を持っていた。 

ただ、一方でこういった社会に窮屈さを感じている人がいることもまた事実であると思う。そして、そんな意味が支配する社会から逃避することは、さして悪いことでもないし、むしろ良い場合もあると思うのだ。意味が支配する社会では、道草すること(目標実現につながらない行動)はあまり褒められたものではない。


ただ、道草には思いもよらない変化や成長を与えてくれたりする効果があることも広く認知されるべきだと思う。 



 少し脱線してしまったようにみえるけど、デビッドボウイの映画をみてぼくが新たに思えたことは、「意味がなくたっていいじゃない」というような、ゆとりを持つことの重要性だ。たぶん、ぼくは無意識的に、映画とは人の心を動かす・人生をかえる・社会問題を告発するものだと、上映前からどこかで期待を抱きすぎていたのだと思う。そんなスタンスは捨て去って、「この世界、意味なんかなくて当然。もし意味があったのなら御の字」というようにもっと肩の力を抜き、偶然の出会いに心を開いておく余裕があってもいいんじゃないかって。

もちろん、道草ばっかはしてられないのはわかってる。意味の追求か、それの放棄。どちらか一辺倒になるのでなく、両輪持っていたい。

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