<rss version="2.0" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/" xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"><channel><title>CULTURE | Write It Down</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/categories/417569</link><description>CULTUREの一覧</description><atom:link href="https://writeitdown.amebaownd.com/rss.xml?categoryId=417569" rel="self" type="application/rss+xml"></atom:link><atom:link href="http://pubsubhubbub.appspot.com/" rel="hub"></atom:link><item><title>映画『メッセージ』評、そこから展開して考えた「未来を記憶すること」の可能性について</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/3335560</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/5da8968e3319e208d5121f7498f3f658_ccf836373633faf1c568870894beca66.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;かったるい前座（導入文章や映画紹介）は抜きにしていきなりレビュー突入。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この作品は、未来予知に必ずしも力点が置かれてるわけじゃない気がする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/b3950b7279d2025288da5749c37da171_e49c142d7e5aba9314ea67b7b790bad9.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;あの円環型表意文字や主人公のフラッシュバック、セリフからも導かれるように、時制の消滅と、過去と未来の同一化(区別のつかなさ)は、未来を称揚するためでなく、過去と未来をフラット化するための試みである。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;それによって、相対的に浮かび上がるのが、「現在」だ。しかしそれは、自己啓発界隈で最近よく見かける「未来なんて分かるわけないから今この一瞬を精一杯生きるしかないんだ」といった”点”形的なメッセージでなければ、「過去の延長線上に未来があるのだから計画的に現在を生きなさい」といった”直線形”的なメッセージでもない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;つまり、この作品は過去と未来の均質化によって、「現在」を相対的にポップアップさせることで、「現在」という概念さえも形骸化させるという逆説を生む。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;どういうことかというと、概念（＝意味）はすべて差異から生まれるものだから、「現在」しか存在しなくなると…つまり過去や未来という比較対象を意図的に失わせることで、「現在」という概念自体の存在基盤を脆弱にする。&lt;/span&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;結果的に、この作品は、「現在」からの離脱をも説いてる。プラットフォーム自体を疑え、と。では、まず何を疑うのか。それは、第一に「過去～現在～未来」という時制だが、その次は「自分の記憶」だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;記憶は、当然だが過去と強固な結びつきを持つ。普通に考えると、ぼくらは過去を記憶することはできても、未来は記憶できない。未来はまだ来ていないし、分からないから。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ただ、この作品の主人公の彼女は、宇宙人の表意文字を習得するうちに、だんだん未来が見えるようになっていき、過去のデータベースであるはずの記憶に、”未来”が交じり始める。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ここで、SF特有の非現実感が苦手な人は、「こんなのありえねーだろ、未来なんか記憶できるかボケ」と突き放してしまいそうだが、それにはまだ早い。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;というか、そんな彼らも知らず知らずのうちに、未来を内在化させている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;記憶というものが、いかに曖昧であるかはぼくがここで改めて言わなくとも、経験として、あるいはどこかの記事で見た人はいるはずだ。記憶は捏造できるし、ときに自分で自分を騙す（例：”思い込み”のようなもの）ことさえある。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;では、ぼくらはいつ、どのタイミングで、「未来を記憶しているのか」。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;それは、日々のニュースで見る、家族を殺された被害者であったりもすれば、ドキュメンタリー番組で見る差別や貧困に苦しむ人だったり、はたまた週刊誌に激写されるようなプレイボーイだったり、カンブリア宮殿にでてくる敏腕経営者だったりする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この例でぼくが意図しているのは、なにか。それは、ぼくらは絶えず、だれかの人生を垣間見ているということだ。そして、彼らは、自分自身の将来に起こりうるかもしれない未来像であり鏡である。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;整理すると、ぼくらは、他者の体験を無意識的に、自分に反射させている（内在化している）。要は、他者の感情や経験を、一旦、自分に置き換えている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;それは、自分の未来を投影させているといえないだろうか。ニュースでみたあの人のように、将来自分もなるかもしれない、と。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;世間には既視感という言葉がある。ぼくらの身の回りには、ぼくらの未来で溢れている。だから、ぼくらはどんな未来がこようと基本的には驚かない。すでに他者の経験をもってして自分の未来をシミュレートしているからだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;スクリーンの中ではなく、現実世界を生きるぼくらも、そうやって自分の過去と、自分の未来の記憶を交ぜ合わせながら生きている。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 03 Dec 2017 06:20:48 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/3335560</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/5da8968e3319e208d5121f7498f3f658_ccf836373633faf1c568870894beca66.jpg"></enclosure></item><item><title>演じることについて（３）</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/2010661</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h3 style=&#34;text-align: center;&#34;&gt;&lt;span style=&#34;font-weight: normal;&#34;&gt;演技の多重性&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;前回は「二重の演技」と題して、実生活上と舞台上の両方で演技する役者について書いてみたんだけど、実際はさらに複雑だ。役者の意識は、もはや二重どころではない多重構造になっていると思う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;どうしてなのかっていうと、役者は舞台上で自らが演じる役柄の実生活上の演技(前回の投稿でいう”やくしゃ”)もしなければいけないからだ。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p data-placeholder=&#34;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;現在興行中の『ロミオとジュリエット』のロミオ役を演じる大野拓朗を例にあげる。大野拓朗はロミオを演じるが、舞台上でさらに様々なロミオを演じなくてはいけない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;『ロミオとジュリエット』というストーリーは、ぼくらからしたら空想にすぎないのだけれど、ロミオ自身にとっては実生活そのものだ。したがって、実生活でぼくらが誰（家族、友人、職場の人間など）と居るかどうかで一々言動を変える現象は、ロミオ自身にも当てはまる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;つまり、大野拓朗は①ジュリエットといるときのロミオ②友人と過ごすときのロミオ③家族といるときのロミオなど様々なロミオを舞台上で演じなくてはいけない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;ぼくたちは分身をひとり、ふたり作るだけでも気苦労を起こすが、役者はそれに見境がない。役者（大野拓朗）は自分の分身（ロミオ）に、さらに分身（ジュリエットといるときのロミオ、◯◯といるときのロミオ・・・・）を作らせなくてはいけない。分身に分身を重ねる役者にとって、自分とは何だろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;役者が自らを一人称「わたしは」を使用する場合、それはロミオを指す場合もあれば、歴史上の偉人かもしれないし、殺人犯であるかもしれない、いやはや本当の意味での自分（戸籍上の自分）を指す場合もあるだろう。そうやって、何者かを演じる限り果てなく増殖する自分を、役者はどう捉えるのだろう。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 13 Feb 2017 03:29:04 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/2010661</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>演じることについて（２）</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1967590</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h3 style=&#34;text-align: center;&#34;&gt;二重の演技 &amp;nbsp;&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;ぼくらは毎日、無意識的にではあるけれど何らかの役を演じている。例えば職場の自分と、仲のよい友だちと居る自分とでは、物理的には同じ自分であるが精神的には違う自分が存在している。また、「職場」で上司と話すのと、「飲み会」で上司と話すのでは、同じ人物が相手でも状況や場所によって、やはり自分の性質は異ってくる。（職場と比べ、飲み会という場の方が上司に対しリラックスして接している自分がいるはず）&lt;/span&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;そうやって、役者を本業としないぼくら一般人でさえも、誰しもが自分が属するコミュニティの数だけ、あるいは自分が居合わせた状況の数だけ、自分の分身を作り日々何かを演じている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;それだけでも何だか奇妙に感じられるけれど、本業の役者はそこにさらに演技を重ねる。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;生まれながらにして、と言ってもよいほど人間だれしもが「やくしゃ」であり、それはこの社会で生き抜いていくためには、たぶん避けられないことでもある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;i&gt;＊この記事でぼくは便宜上、この現実社会から追放されたり仲間はずれをされないために誰もがほぼ例外なく行う演技や小芝居（自分と対峙する人物が誰であるのかによって、自分の言動をその都度変えること）をする人を「やくしゃ」と言い、映画や舞台上で行われる多くの人が一般的に想像するいわゆる演技をする人を「役者」と言う。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/i&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;例えば、小栗旬であっても後輩俳優を引き連れている時と、蜷川幸雄と対峙していた時とでは、言動に差が出ていたはずだ。その点では、というのは、つまり現実社会をそつなく円滑に生き抜いていくために「やくしゃ」を演じるという点では、ぼくら一般人と変わりない。ただ、「役者」はそこ(=「やくしゃ」である自分)に、さらに上書きするように舞台上やカメラの前で演技を重ねる。つまり、小栗旬は「やくしゃ」であり「役者」でもある。逆にぼくら一般人は「やくしゃ」ではあるが「役者」ではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;ぼくが、演じるということについてむずがゆさを感じたのはそれだった。「やくしゃ」が「役者」をする。普段の私生活で何かしら演じているのに、カメラの前で舞台で、さらに演じるのか〜と感嘆してしまった。現実世界と、そして映画や舞台などのフィクショナルな仮想世界とで、二重に演技を重ねる「役者」に、ちょっと驚いたし尊敬した。それが、ぼくなりに感じた二重の演技の意味です。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 03 Feb 2017 05:34:49 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1967590</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>演じることについて（１）</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1954709</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;ぼくは単純に映画やテレビドラマとの接触回数が多いばかりに、&amp;lt;演技&amp;gt;というものを機械的にそれらと結びつけ過ぎていた。考えてみれば当たり前なのだけれど、演技というものは何も映画やドラマに出演する役者の専売特許ではない。&amp;lt;演技&amp;gt;を、肉体を駆使したパフォーマンスアートという広い枠組みで捉えてみれば、演劇はもちろん、オペラやダンス、音楽、バレエ、大道芸、漫才など実に様々なものを含んでいる。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんな当然のことを改めて気づかされたのは、先日の宝塚歌劇鑑賞がきっかけだった。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;宝塚ファンからは怒られるかもしれないが、観劇中ぼくは思わず笑いをこぼしてしまうことが何度かあった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;ちなみに、ぼくが見ていたのはコメディ作品ではなかったし、また笑みを浮かべたときは、会場に笑いが起きるような場面ではなかった。むしろ、気持ちの高ぶりによって身体を震わせるように舞う役者の演技と、それに共振する観客の熱気とで、会場のボルテージが最高潮になろうとしている瞬間に、ぼくは不意に笑みをこぼしてしまったのだ。&lt;/div&gt;&lt;p data-placeholder=&#34;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今になって振り返ると、自分が思わず笑みをこぼしてしまった要因は、そこにあったと感じる。自己（ここでいう自己は、作品で演じる役名でも、普段の役者活動で使用している通名（ペンネーム的なもの）でもなく、自分の戸籍上の本名に付随するその人自身の性格や歴史）をかなぐり捨てるようにして、力強い眼つきや流麗とした声色と立ち振る舞い、そして豪奢な衣装やメイクで、舞台上に自分の肢体を捧げる役者たち。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、ぼくの笑いは、これら大袈裟とも言えるほどの、溢れんばかりの役者の感情表現を受けてのことだった。誤解を恐れず言うのであれば、あのとき全てが過剰だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;ぼくには、顔がちぎれるくらいの笑顔や、顔がしおれて枯れてしまいそうな悲しい顔はできないし、リズムに合わせて身体を揺らしながら誰かの名前を歌うようにして呼びかけたこともないし、そんな人を見かけたこともなかった。今まで自分が享受してきた他者からの感情表現を、圧倒的に超越する演技だったから、ぼくの脳はそれをうまく飲み込むことができず不意に笑みがこぼれてしまったのだと思う。(彼女ら役者の人たちは、「バイバイ」という何気ない台詞ひとつにしても表情や身振り手振り交えて全身全霊で「バイバイ」を表現する。普段ぼくらは「バイバイ」と言う事に本気を出すはずもなく、ぶっきらぼうにそれを言っている身にしたら、彼女らのはじけんばかりの感情表現に衝撃を受けるのは当然ともいえる)&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;だから、笑みの正体は、役者の感情表現がぼくの脳にオーバードーズされ、処理能力の限界を超えてしまったときに起こるコンピューターのバグみたいな反射運動だったのだと思う。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 31 Jan 2017 13:35:25 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1954709</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>ある映画をみて感じたこと</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1898102</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;先日、友人に誘われてある映画を観に行ってきた。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;1976年にデビッドボウイ主演で製作された『地球に落ちて来た男』という作品。デビッドボウイが亡くなってから1年、その追悼記念として神戸のアートビレッジセンターにて再上映されたのだ。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;次に、本来であればこの映画のストーリーを、結末は明かさない程度にここで紹介することが、映画をわざわざこのような場所で取りあげる上での定石だと思うのだけれど、そうすることが何とも難しい作品だったのである。（それは、もちろんぼくの理解力に問題があった可能性もあるのだけれど）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;つまり、二時間強ある尺のなかから、一筋の通底した主題や物語性、この映画（監督）が意図するメッセージを汲み取ることが難しい断片的な映画だったのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;正直、この映画を見終えた際に「半端なかったー、超よかった」と感じる人は、よほどデビッドボウイに肩入れしている人もしくは独特な価値観を持っている人に限られてしまうのではないかと思ってしまう。だから、基本的にこの映画を友人に快くおすすめすることはできない。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;では、なぜそんな作品をこのブログで取り上げたのかというと、あることに不意に気付かされたからである。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;それは、あらゆることに対し過剰に意味を要求してしまう自分の存在である。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;いまの社会は意味が支配していると感じる。ビジネス（仕事）でも受験勉強でも、就職活動でも何でもいいけれど、まず目標を設定しそれを実現するための行動が基本的には「意味がある」とされる。裏返せば、目標実現につながらない行動は、「意味がない」とされる。 ぼくもそのような思考を持っていた。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、一方でこういった社会に窮屈さを感じている人がいることもまた事実であると思う。そして、そんな意味が支配する社会から逃避することは、さして悪いことでもないし、むしろ良い場合もあると思うのだ。意味が支配する社会では、道草すること（目標実現につながらない行動）はあまり褒められたものではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;ただ、道草には思いもよらない変化や成長を与えてくれたりする効果があることも広く認知されるべきだと思う。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;少し脱線してしまったようにみえるけど、デビッドボウイの映画をみてぼくが新たに思えたことは、「意味がなくたっていいじゃない」というような、ゆとりを持つことの重要性だ。たぶん、ぼくは無意識的に、映画とは人の心を動かす・人生をかえる・社会問題を告発するものだと、上映前からどこかで期待を抱きすぎていたのだと思う。そんなスタンスは捨て去って、「この世界、意味なんかなくて当然。もし意味があったのなら御の字」というようにもっと肩の力を抜き、偶然の出会いに心を開いておく余裕があってもいいんじゃないかって。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もちろん、道草ばっかはしてられないのはわかってる。意味の追求か、それの放棄。どちらか一辺倒になるのでなく、両輪持っていたい。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 17 Jan 2017 14:50:13 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1898102</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>日本のファッション誌について</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771249</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;蔦屋書店で国内外の雑誌を漁っていると、日本のファッション誌の異質さに気づく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;海外ファッション誌は、ビジュアルを多用しその雑誌ならではの世界観丸出しで、「見せる」内容という意味では、アートブックさながらの様相を呈している。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;一方、日本のファッション誌は、ファッションの装い方、例えば「袖捲りは、◯回折り返す」「ゆったりしたシルエットのボトムスを選ぶなら、トップスはコンパクトにしAラインを演出し、云々」など教科書的な性格が強い（ことに女性誌では）。少なくとも蔦屋書店に置いてある海外ファッション誌で、スタイリングについてとやかく指南するようなページは見たことがない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;言ってしまえば日本のファッション誌は、読者をなめている。「あなたたちダサいから、わたしたちが着こなしを教えてあげる」と言わんばかりの上から目線。むしろ、「いつまでダサい子供でいて、この雑誌を買い続けてね」と、おしゃれ初心者のファッション誌への依存体質を強固なものにし、彼らをドル箱に育て上げようとする読者の自立を促さない親バカたちのようだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ちなみに、欧米のファッション誌を褒め称えているわけでは全くないし、着こなしを教授するファッション誌もあってしかるべきであると思う。ただ、国内の数あるファッション誌が、総じて教科書的性格に同質化している現状に嫌悪感を抱いているだけです。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 11 Dec 2016 15:10:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771249</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>小津映画の違和感を紐解く</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771239</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;みんなは小津安二郎の映画を見たことがありますか。昭和を代表する映画監督らしいのですが、自分が初めて小津映画を見た時は、違和感を感じまくりでした。母から「淡々とした映画だよ」ってことだけは事前に言われていたので、それは覚悟していました。でも、それ以外にも何かと違和感ポイントがたくさんありました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんないくつかの違和感のなかでもひとつ取り上げたいのが、整然とした構図や短い簡単なセリフの繰り返し、奇をてらわない単純なストーリー展開などから見受けられる、微塵の妥協も感じられないほどまでに徹底された”雑駁性の排除”です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;最初は意味不明でした。日常のどこを切り取ればこんな色彩的配置的にバランスのある画を切り取れるのか（これは小津への賛美というよりも、「こんな日常存在せんやろー」と非現実的なまでの小津の美的感覚を不思議に思った）。また、「飲もう、飲もう」「そうだね、飲もう。うんと飲もう」（これは、小津映画に実際に登場したセリフではなく、便宜上仮定した俺のアドリブセリフ）みたいな、平易な単語を不自然なほどに繰り返す様子。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;なんでだろう。と思い、蓮實重彦の有名な小津評論やその他の評論を読んでみたものの不可解なままでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;でも、それからしばらくして、「もしかしたらこういうことかな？」と一筋の光みたいなのが見えるようになったのです。それは、巷にあふれる広告コピーに対する嫌悪感を抱いたときがきっかけでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;商品名を入れ替えたら何でも応用できそうなキャッチコピー、いかにも「うまいこと言えたでしょ」感が漂う語呂合わせコピー、一見すると語感は良いけど恩着せがましい偽善コピー。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そういうなにか装飾や脚色にまみれさせて本質を打ち隠すような広告コピーと比べると、小津映画は構図からひとりひとりのセリフまで不純なものを徹底的に排除している。「良いこと言ってやろう」というようなだれも頼んでもいないのにわざわざ観客に教えを説くようなことは決してしない。そんな小津の無垢な世界観というのは、「してやったり」感を覚えさせる陳腐でこってりとし胃もたれを起こしてしまうようなコピーより、アレルギー反応なくそっと心のうちに入り込んでくる。それが、小津映画の魅力だとぼくは思っています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、だらしなく、煽るようなキャッチコピーで溢れかえった世界に慣れきってしまった現代人にとっては、整然とした小津映画に、最初は違和感を感じずにはいられないのもまた事実ではあるのですが…&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 04 Dec 2016 15:08:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771239</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>森のリッラクス効果と抽象絵画</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771216</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/5313db0946e748bfd4937ce2f2dece74_0086093d4f091dc64c7a08f938a02d60.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;森や林を見ているだけでリラックス効果があるというけど、一面を絵の具で覆われた抽象絵画にもそれがあるという説。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;遠景で森を見たときのモジャモジャ感(無数の葉っぱや枝がつくる迷彩柄)は科学的に数値化できるらしく、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;森のモジャモジャ感と一面絵の具まみれの抽象絵画のモジャモジャ感の数値は似ている。従って、訳の分からん抽象作品に心奪われるのは、人間が自然に惹かれるのと同じ原理。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ってのをずっと前テレビでやってたのを、森林植物園を散策していたら、ふと思い出した。これめっちゃ面白くない？&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 18 Nov 2016 15:49:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771216</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/5313db0946e748bfd4937ce2f2dece74_0086093d4f091dc64c7a08f938a02d60.jpg"></enclosure></item><item><title>星野道夫の『旅をする木』</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771183</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;海はしょっぱい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんなこと知っていたけど、ぼくにとって、それはあくまでしょっぱい「らしい」ということでしかなかった。サーフィンをして自分の顔面を海面に叩きつけるように転んだとき初めて、自らの感覚として海がしょっぱいことを感じた。知識が感覚に、そして体験に変わった瞬間だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんな些細なことから、自分に視覚が備わっていることに感謝せずにはいられなくなるようなきれいな朝焼けを見て、ぼくはその日から何となく”自然”に対し関心を抱くようになった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんなとき書店で手にとったのが、探検家で自然写真家の、星野道夫の『旅をする木』だった。この人の名前だけは以前から知っていた。最近BRUTUSやCoyoteなどの雑誌で特集をされているのを目にしていたから。そして、小学６年の妹の国語の教科書に教材として氏の随筆が掲載されており、よく妹が宿題として家で音読していたからだった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;偶然開いたページに、こんな文章があった。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;ある夜、友人とこんな話をしたことがあった。私たちはアラスカの氷河の上で野営をしていて、空は降るような星空だった。月も消え、暗黒の世界に信じられぬ数の星がきらめいていた。時おり、その中を流れ星が長い線を引きながら落ちていった。&lt;br&gt;「これだけの星が毎晩東京で見られたらすごいだろうな。夜遅く、仕事に疲れた会社帰り、ふと見上げると、手が届きそうなところに宇宙がある。一日の終わりに、どんな奴だって、何かを考えるだろうな&lt;br&gt;いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって」&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;何気ない文章なのかしれないけど、やわらかいタッチの文章に惹きつけられた。そして何より、自分も「どうしたら伝わるんだろう」と一瞬立ち止まらずにはいられなかった。その文章の続きが気になって仕方がなかった。それなのに、ぼくはそこで本を閉じた。その続きを立ち読みで済ましてしまうのが何だか勿体無い気がして、家でゆっくり読もうと思ったからだった。何よりその文章を読んだだけで、全ページに期待感が充満した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;続きはこうだった。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;「・・・もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって」&lt;br&gt;「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いてみせるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」&lt;br&gt;「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって。その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」&lt;br&gt;&lt;p&gt;人の一生の中で、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。この世へやって来たばかりの子どもへも、去ってゆこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;ぼくはこの本を買ってから、少しこの人のことを調べてみた。1952年生まれであること。今年で没後２０年になること。テレビ番組の撮影のために立ち寄ったカムチャツカでクマに襲撃され亡くなったこと、アラスカに魅せられていたこと。何でもいいからもっと彼のことを知りたくて、妹のランドセルから国語の教科書を引っ張り出してきて、掲載されている氏の文章も丸々目を通した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;高度に文明化された、そして「人と人とのコミュニケーションが大事だ」と喧伝される現代社会を生き抜くぼくらに、ちょっと足を伸ばせば自然があること、コミュニケーションの相手は必ずしも人じゃなくてもいいじゃんってことを思い出させてくれる本です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;キャンプ道具持っている人もしいれば、近くの山でも一緒に行きましょう。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Wed, 21 Sep 2016 14:54:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771183</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>読まれる文章</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771135</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/a48dde9fe220505471899819d496fc14_6e38627bafd49e7047cceab309ba509f.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;ぼくが政治や報道、文章を書くことに興味を持ったきっかけの一つは、ニュージャーナリズムという60年代のアメリカで生まれたジャーナリズムの新しいスタイルを知ったことでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、雑誌ポパイのコラムを読んでいるときにふと目にしたワードでした。それから、ぼくは本屋や図書館、ネットでニュージャーナリズムについて探るようになりました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そもそもニュージャーナリズムといのは、（定義が様々な場合もあるようですが）一言で言えば小説とジャーナリズムの中間にあるものだと思います。例えば、ノンフィクションやルポルタージュと分類されるものに当たります。ぼくたちが普段目にする新聞は、客観的に物事が綴られており、筆者と取材対象の間にそれなりの距離があることを感じさせる文章が基本的です。一方、ニュージャーナリズムというのは、より取材対象に差し迫ったポジションから、いわば事件の当事者的に文章を書くわけです。従って、記事に「わたしは」などの一人称が入り込む余地が多いにあるわけです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;このニュージャーナリズムを用いた一番のメリットとしては、たぶん温度感が伝わることだと思います。事実を淡々と述べる客観的な記事に比べ、現場の熱量、筆者や取材対象者のパーソナルな部分が肌感覚で伝わる結果、「読み物」としても楽しめるようになっていることがポイントだと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ジャーナリズムは公平中立、不偏不党、客観性を絶対視するものと決め込んでいたぼくは、このニュージャーナリズムを知り驚いたわけです。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Wed, 10 Aug 2016 14:34:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771135</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/a48dde9fe220505471899819d496fc14_6e38627bafd49e7047cceab309ba509f.jpg"></enclosure></item><item><title>好きなアートの見分け方</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771123</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;少し前神戸新聞で哲学者の鷲田清一氏は、美術作品とそれが飾られる空間の関係性についてこう述べています。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;”無記の空間（多くの美術館のホワイトキューブ的なまったくのニュートラルな空間）それ自体が美術作品の「額」になっている。そこに何かを置けばそれだけで作品っぽくなる。”&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;普段美術館でみる作品、それが友人の家に飾られていたなら、高校の美術室の乱雑に並べられた作品群のなかにぽつんと置かれていたなら。そんな風に想像しても尚、その作品に存在感や際立つ美を感じるならきっと本当に自分が好きな作品なのかもしれません。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 25 Jul 2016 14:32:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771123</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>アートをどうやって読み解くか</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771104</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;アートの楽しみ方って、いく通りもあると思うんです。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;今回は前回の投稿とは翻って、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;理解する・読み解く楽しさも、アートにはあることを書きたいと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;アートに対し単純に美しさを求めるだけでなく、&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;作品が示唆するものを解釈する楽しさを知ったのは、大学の講義においてでした。そのアートの講義で紹介されたのが以下の作品。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/531e7d56d483caa87e04378f8ecc3d64_b01318a94a2c213cb120dec3787f2e53.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;『閂』フラゴナール作&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;閂（かんぬき）とは、穴の空いた受け具に、棒を差し込み施錠するもの。要は錠のことです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;みんなは、これを見て何を感じますか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;男性が女性を抱きかかえている様子から、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;男女の愛をテーマにしていることは、何となく察しがつくと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、「もう少し絵の細部まで注目していくと、さらなる推測が得られる」と教授は言ったのです。そのひとつが、作品名でもある閂です（意味作用を担うモチーフは、目線を誘導するように、多くの場合陽光で照らされる）。棒と受け具はそれぞれ男女の性器を暗喩しており、より官能的な雰囲気を示唆する、と。また、散らかったベッドからも、情事を匂わせる強い欲望を感じさせると。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そういったアート鑑賞の仕方を知らなかった当時のぼくにとって、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これはメカラウロコな体験でした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;女性が背中を仰け反り男性から離れようとするのは、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;いけない関係だと自覚しているからなのかな、この男性のことは好きだけどとりあえず拒否するフリだけしているのかな、とか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;閂を掛け、その後なにが起こるんだろう、とか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうやって、時間的動作的な「一瞬」を絵に描いたのに、前後のストーリーが紐解ける。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;いわば、点が線を喚起する。それもアートの魅力だって思います。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 26 Jun 2016 14:25:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771104</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/531e7d56d483caa87e04378f8ecc3d64_b01318a94a2c213cb120dec3787f2e53.jpg"></enclosure></item><item><title>アートは感じるべきなのか読み解くべきなのか</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771094</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;今回は少し難解な話になりますが、一見すると理解不能に思えるアート作品の捉え方について思ったことを書きます。最後まで読んでも理解できなかったら、きっとぼくの文章力のせいです。&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊アートは”理解”できるのか&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;何を書こうか、そう思いながら自分の本棚を眺めていました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのとき手に取ったのがとあるフリーペーパーで、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その中で目に止まったのが横尾忠則のインタビュー記事でした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;横尾忠則は、今年で齢80になるグラフィックデザイナー出身の画家。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;最寄駅近くに横尾忠則現代美術館があり、実際に作品を目にしたことがあります。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/85cb0546b033c74bafc7012fdf73d20a_37dfc3b425d40cf71a5df5cf4bd06563.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;こんな感じの、たぶん括り的にはアンディ・ウォーホルなどに代表されるようなポップアートとして分類されるような画風。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;（ぼくのブログだから勝手なことを言わせてもらうけど）そこに美学は感じられなかったけど、胸の奥にむず痒さみたいなものを感じました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;広告デザインのポスターのような絵に、家族や学校の集合写真が遺影のように散りばめられた作品群。ぼくは、アートというのは何かを伝える手段（表現）だったり、心惹かれるような美を創出することだと（ぼんやりとだけど）思っていました。だから、横尾氏の作品が示唆するものが理解できず、アートというものがますます分からなくなってしまいました。&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊理解しなくていい&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;そんなとき再びフリーペーパー上の横尾氏のインタビュー記事を目にし、飛び込んできたのが横尾氏のこんな言葉でした。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;”20代になると知識と情報でものを見てしまうでしょう？その視点のままに描いたら、観る方だって「ああ、知ってる、知ってる。」となりますよ。でも、人間の心とか、魂とか、霊性をえぐるには、それは違うんだよな。”&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;この言葉をかみしめたとき、難解なアート作品との接し方が少し分かった気がしたんです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;横尾氏は自分の知識と情報を信頼せず、別次元の自分・もしくは心の深層に横たわる根源的な自己が作品を描いています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;他にも記事内で「自分は何を描きたかったのか、絵を完成させたあとに気づくことが多い」という旨の発言があるように、制作段階では横尾氏自身も自分が何を表現したいのか自分で自分を理解していないと思います。それって、作者自身が理解不能な作品を、われわれ鑑賞者側が理解できるはずがないということです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、アートはそれでいいんじゃないかって思います。アートはそもそも理解するものじゃないかもしれない。そこに論理性はなく、理解できたとしても、他人と同じように解釈する必要もない。だから、作品から受けた印象を言語化する必要もなく、もやもやとした感覚をそのまま胸の中で飼い慣らしておけばいいのかもしれない、ということです。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 24 Jun 2016 14:21:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771094</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/85cb0546b033c74bafc7012fdf73d20a_37dfc3b425d40cf71a5df5cf4bd06563.jpg"></enclosure></item><item><title>長い詩のような小説(2)</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771064</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;URL: &lt;a href=&#34;https://youtu.be/0yFWtLXcWEI&#34;&gt;youtu.be&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://i.ytimg.com/vi/0yFWtLXcWEI/hqdefault.jpg&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;/a&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;映画の挿入歌『Home/Will Hanson』&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;本当に本当におすすめです、聞いてみてください。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;スライドショーで出てくるケルアックの言葉の数々も、&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;頑張って辞書を引き出してきてでも意味を知りたい理解したいって思えます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;画像クリックでリンク先へ飛べます&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 21 May 2016 14:10:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771064</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://i.ytimg.com/vi/0yFWtLXcWEI/hqdefault.jpg"></enclosure></item><item><title>長い詩のような小説(1)</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771052</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;小説『オンザロード（旧訳のタイトルは『路上』）』を少し前に読み終えました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これはビートジェネレーションという５０、６０年代のアメリカ文学運動の&lt;/p&gt;&lt;p&gt;一丁目一番地とも言える作品。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そして、時代や環境が大きく変わっても、人が抱く感情は少しも変わらないんだってことを教えてくれる。そんな物語です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくにとってこの物語との最初の出会いは、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;実は小説よりも映画が先でした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;大学１年か２年のころ有楽町の映画館で見ました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;当時は、小説を映画化したものとはつゆ知らず、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;興味本位で劇場に足を踏み入れたのでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;上映前館内で、『路上』という原作小説を眺めている人を幾人か目にし&lt;/p&gt;&lt;p&gt;た時、上記のいきさつをようやく理解したのでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;あと、原作を小脇に抱えた人たちが、いい年のとり方をされていて、またすごく粋な雰囲気を&lt;/p&gt;&lt;p&gt;放っていたことは今でも覚えています。これは、決して有楽町という土地柄からではなく、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;この作品がそうさせてたんだとぼくは思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その後、あらためて小説も読みたいと思ったのは、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しばらく経ってからでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;松浦弥太郎氏のエッセイが好きでいくつか本を読んでいて&lt;/p&gt;&lt;p&gt;度々出てきたのが、この『オンザロード/路上』でした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;松浦さんが、二十歳前後で必死に人生を模索していたときにも&lt;/p&gt;&lt;p&gt;読んでいたと知り、読まずにはいられませんでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;退廃的で非生産的で無意味とも思えることに対しても、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;一心不乱に、狂ったように全生命を捧げるディーン・モリアーティ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;でも、そこには、今も確かに”生”が与えられていることを感じさせる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;自由の国アメリカをアメリカたらしめたのも、この作品だとぼくは思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;小説を読んだ今、もう一度映画を見てみたいなと思っています。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 21 May 2016 14:07:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771052</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>一瞬の光を捉えるアート</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765090</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h2&gt;＊写真機よりも五感で&lt;/h2&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;URL: &lt;a href=&#34;https://www.youtube.com/watch?v=5jsdarfpsLk&#34;&gt;www.youtube.com&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://i.ytimg.com/vi/5jsdarfpsLk/hqdefault.jpg&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;/a&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;椎名林檎 /閃光少女&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;”切り取ってよ、一瞬の光を&lt;br&gt;写真機は要らないわ    五感を持ってお出で&lt;br&gt;私は今しか知らない    貴方の今に閃きたい”&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;先日好きなアーティスト（椎名林檎ではないです）のライブに行き、多くの観客の人たちがスマホを頭上に掲げ写真や動画を撮っている光景を目にしました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのとき、まさに上記の歌詞そのままの状況を目の当たりにしたと気づいたんです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;（椎名林檎風に言えば）アーティストがおそらく一生でもっとも閃いている一瞬の光を、果たして（スマホ片手に）私たち観客は感じとることができるか疑問に思いました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;（ちなみに、ライブで写真を撮る人を真っ向から否定しているわけではないです。ぼくも撮ります。それは、大好きなアーティストとひとつの場所と時間を確かに共にしたという証を、これからもずっと携えていきたいという気持ちは自然なことだと思うからです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、少しだけ言いたかったことは、撮影するよりも、自分の五感を最大限に働かせて今を感じ、記憶として刻みこむことのほうが、ぼくには、とっても贅沢なことだと思うんです。）&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊椎名林檎でアートを考える&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;かくいいつつも一方で、逆説的にこうも思ったんです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;優れたアートは、その一瞬の光を的確に捉えた（もしくは描いた）ものじゃないかって。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もっと言えば、その一瞬の光を捉えたアート作品は、見る人に五感を喚起させる力があると。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;要は、椎名林檎は&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;”切り取ってよ　一瞬の光を&lt;br&gt;写真機はいらないわ　五感を持ってお出で“&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;と述べていますが、五感でしか感じることのできないその一瞬の光を、写真機で捉えてしまった写真がアートとして評価されているのではという仮説です。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&lt;hr&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/53f266b5016577e9f2ec2773926b143c_2d19e7ef2fec4aee6e09c0f2b60303d7.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;Saul Leiter「Man in Starw Hat(1955)」&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;超絶個人的意見ですが、ぼくはこれを見て、現場の空気感や温度感が一枚の写真にうまく密封されていると思ったんです。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;と同時にこの写真を見つめた瞬間に、シャッターによって閉じ込められた当時の空気感が、まるで栓をポンっと開けるようにして、ぼくの心の中で一気に充満するような感覚に陥りました。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;言い換えれば、撮影者であるソールライターが感じた一瞬の光を追体験できた感覚です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくは、そんなアートが好きです。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 04 Mar 2016 06:12:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765090</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" 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