<rss version="2.0" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/" xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"><channel><title>OPINION | Write It Down</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/categories/417564</link><description>OPINIONの一覧</description><atom:link href="https://writeitdown.amebaownd.com/rss.xml?categoryId=417564" rel="self" type="application/rss+xml"></atom:link><atom:link href="http://pubsubhubbub.appspot.com/" rel="hub"></atom:link><item><title>「大人」は何も表さない。「二十歳以上」という意味以外のなんの形容にもならない。</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1845086</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;年長者への特別な敬意など必要ない。あくまで個人的見解に過ぎないけど、わりかし本気でそう思っている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;ぼくは、頻繁に公共の図書館へ足を運ぶが、新聞コーナーに「盗難はおやめください」という趣旨の張り紙が貼ってあり、雑誌置き場もところどころで「今月の『◯◯１２月号』は所在不明になりました」と遠回しに盗まれた旨を示す札が貼られていたりする。ぼくはその図書館で新聞を読む若者の姿を見たことがないし、盗まれた雑誌は中年向けの雑誌がほとんどだ。というか、そもそもティーン向けの雑誌はその図書館には置いていない。つまり、これらは大人による犯行だと断定してもよいとおもう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これに限らず、「自分は、人の悪いところだけを見ようとしているのではないか」と自己嫌悪に陥りかねないほど、この手の大人のマナー違反は枚挙にいとまがない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;就職活動や接客業をしてみたりとここ一年、二年は多くの大人と出会う機会があった。尊敬できる大人に出会えた一方で、大人に幻滅することもあった。まあ常識的に考えればそうだ。良い大人もいれば悪い大人がいて、悪い大人もいれば良い子どももいる。おっさんやおばさんになっても新聞を盗んだり店員にキレたりする輩もいれば、１０代で組織を立ち上げ社会問題の解決に取り組む人もいるわけで。もはや、年齢に大した意味は持たないのではないかと思う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;だから、ぼくは20歳を境にした「大人と子ども」という括り自体に懐疑的になり、「大人だから」「目上だから」という大した根拠も中身もない理由で特別に敬意を表する必要はないと思った。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、ぼくは年長者に敬意を表さない訳ではない。年長者にも敬意を表するが、それは「年長者だから」という理由でなく、敬意はひとりひとりの人間すべてに表するべきだと思っているからだ。だから、年齢や役職が下の人に対しても尊敬の念を持って対峙すべきだと思う。また、相手が年上だからといって過剰にへりくだる必要はないと思う。ある一定以上の敬意が担保されているのであれば、年上に対する敬意の度合いと年下に対する敬意の度合いは同等で構わないと自分は思っている。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 03 Jan 2017 14:17:44 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1845086</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>カウンターカルチャーの脆弱性（補足）</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771247</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;ジャックケルアックの『オンザロード』を代表とする文学運動ビートジェネレーションも、いわゆるカウンターカルチャーのひとつとされる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、訳者の青山南氏が確かあとがきにこんなようなことを書いていた。それは、ケルアック自身は「カウンターしよう」なんて全く思っていなかった、ということ。彼は権力に反抗しようなんてこれっぽちも思ってはおらず、社会が勝手にそう（カウンターとして）捉えただけのこと。かつ、政治やマスコミがそのように利用したに過ぎないということ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;たぶん現代でいえばSEALDsもカウンターカルチャーに入るだろう。この人たちも、最初のきっかけは特定秘密保護法に個別に反対していたに過ぎなかったが(つまり、法案に反対していたのであって反権力ではなかった)、当時の民主党や共産党に憑依あるいは乗っ取られ、あるいは利用された。（SEALDsもSEALDsで彼ら政治家を利用したと思っているだろうけど）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そして、結局のところ端から見れば「はいはい、いつもの反権力ね」というイメージが付与されてしまった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もっとも、昔の学生運動と比べ、非暴力的な運動で、音楽やデザイン、SNSなどあらゆる手法を用いてデモを身近にさせたのは、大きな進歩だと思います。彼らの「主張」を否定する保守派論客は普通にいるにせよ、彼らが新しい形のデモを生み出したことまでをも否定しようとする論客は自らの主義主張思想に縛られた可哀想な人たちであると思う。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 06 Dec 2016 15:09:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771247</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>カウンターカルチャーの脆弱性</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771241</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;アメリカにおけるベトナム反戦運動、公民権運動、ドラッグやフリーセックスを象徴とするヒッピー文化。日本における６０年７０年安保に付随するかたちで発生したマルクス主義的な学生運動・左翼運動。また、それらと精神を通わせる文学や音楽などの芸術なども含めいわゆるカウンターカルチャーと称されることがよくあります。それらは、しがらみや規律を嫌い自由を求める若者にとって、大きな求心力を持ちました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今回は、「反権力「反体制」という姿勢から生まれたカウンターカルチャーを分析し、カウンターカルチャーに対するカウンターとして、ぼくなりのカルチャーのあるべき姿について書きます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;とは言いつつも文章が長すぎても退屈なだけだと思うので、簡潔に言う。反権力・反体制のいわゆるカウンターカルチャーの弱さとは、自立できない点にあると思う。かれらは、反権力と言うくらいだから、権力が存在することが前提となっている。つまり、権力や体制が存在していなければカウンターカルチャーも存在し得ないという他者（権力・体制）依存に陥ってしまっている。その点において、権力が変わればカウンターカルチャーのスタンスも変わらざるを得ないという脆弱性がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だから、本当に目指すべきカルチャー像は、権力や体制、さらに世俗から超越したものだと思う。それは、だれの関与も受けず、だれからも存在を規定されない自立した文化であると思う。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 06 Dec 2016 15:08:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771241</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>普遍性と一時代性</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771154</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;基本的に優れたデザインを持つものは、「時代を超える」とか「いつの時代においてもモダンに見える」とか「流行に左右されず、いつまでも廃れない」と言われる。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/69388f0d267857022957a1a9e1a02d9c_639e711ad2ba1d819d107966c0817ab3.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;・榮久庵憲司がデザインしたキッコーマン卓上醤油瓶。ニューヨークのMOMAにも展示された。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/f7352451df45246a1fb04bda914329e0_ed8ed0121e5b0fa36f51cd70e81fa614.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;・1947年の『Harpar’s Bazaar 』当時のアートディレクターはアレクセイブロドヴィッチ&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、それはたぶんデザインに限ったことではない。アートや建築、ファッション、文学、映画、音楽、食などあらゆる文化においても、いつの時代においても愛されるような普遍的で根源的な作品が必ずある。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;一方で、ある特定の時期において熱狂的なファンを獲得したものもある。例えば、昭和を代表する映画「男はつらいよ」シリーズや、長髪が特徴的なヒッピーファッションなど、一時代を築いたと言える文化。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;普遍性と一時代性。優劣はたぶんない。普遍性を有するもの、例えばヘインズの白ティはいつの時代においても自分が堂々としていられるファッションアイテムだし、他方では、ぼくがよぼよぼのジジイになっても、AKB48の曲を聴くだけで一瞬で青春時代にタイムスリップできる、そんな素晴らしさが一時代性を有するものにはきっとある。&lt;/p&gt;&lt;p class=&#34;&#34;&gt;歴史を歴史家や学者だけに語らせるのはもったいない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;教科書で1960年代の歴史を学ぶより、60年代に流行した映画や音楽などの文化に触れたほうが、当時の価値観や背景が感じられる。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Thu, 18 Aug 2016 14:44:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771154</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/69388f0d267857022957a1a9e1a02d9c_639e711ad2ba1d819d107966c0817ab3.jpg"></enclosure></item><item><title>いくつになっても若気の至り</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771115</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;「若気の至り」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくにとって恐ろしい言葉。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;中高時代は、基本的に前髪が暖簾（のれん）のようになっていたし、大学1,2年の頃はおしゃれ度で人の優越が決まると半分本気で考えていたぐらい偏狭な考え方を持っていました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、ファッションだけに狂い上がり他のことについて何ら知識や教養がない自分。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;授業しかないのにセットアップで全身キメキメな一方で、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;家の中ではよれよれのTシャツで生活感溢れる乱雑な部屋で生活している自分。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんな外面だけ取り繕い中身が空っぽな自分を、無性にださいと感じるようになりました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのときと比べたら、ぼくは変わったと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今でもジャケパンスタイルはするし好きだけど、会う人や場所を考えるようになったし、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何より昔みたいに「ほらおしゃれでしょ」みたいな自分を誇示するような性格の悪い着こなしや雰囲気は（たぶん？）無くなりました。そして、相変わらず部屋は散らかりやすいけど、不要なものは減り、為になるものが増えました（お金の使い方が変わりました。。。例えば、毎日使用するもの：筆記具や本や雑誌、美術館や美味しいごはんに。）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そして、幸いなことに母校には大変ためになる授業があって、そのおかげで筋道の通った思考を多少は会得できたかなと思えたり、本や人との出会いの中で、多様な意見を受容できる余裕が少しずつだけど生まれ、政治や経済、デザイン、アート、文学、建築等々にも関心が広がりました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;最初の方で昔の自分が、悪い意味でどれだけヤバかったかを書きましたが、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;でも、それはイコール「今の自分はヤバいほど成長したんだ」ということです。というかそう思うようにしています。60歳になっても、50代を振り返ったとき、「若気の至り」だったと言える状況でありたい。「若気の至り」は誰にとっても恐ろしい言葉かもしれないけど、昔を振り返ったとき何も変わっていないことに気づく方がたぶん怖いと思うからです。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 19 Jul 2016 14:30:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771115</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>知識と創造性</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765117</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h2&gt;＊カップラーメン化した知識&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;スマホが普及して、いつでもどこでも知らないことは検索できて。ぼくらの世代では、それがもう当たり前になりました。昔は、専門家に直接聞いたり、書籍や論文を読むなど大変な苦労を用せずには、知識を得ることはできませんでした。でも、今は知るという行為が、すごくインスタントのようなものになっている気がします。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;となると、現代はスマホがなかった時代より、知識の価値が相対的に低下しているんじゃないか。それは、けっこうな人が感じてることだと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;スマホが普及した現代は、「これってなんだっけ」って思った５秒後には答えがわかる世界です。（クイズ番組が昔ほど流行らないのも、これが原因なんでしょうか…）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;みんなそろって、グーグル先生に頼る社会。学校へ行けば、人それぞれ担任の先生が異なりますが、スマホの中では先生はグーグル先生ただひとり。知識を求めるデータベースがみんな一緒だから、そこから得る知識も画一化していく。知識のオリジナリティが欠乏していく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「頭のいい人は？」と言われて思い浮かぶイメージも、昔は「物知りな人」だったのも、現代では判断力や実行力、思考力や想像力のある人にシフトしてきているとぼくは思います。&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊それでも知識を得る理由&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;ただ、それでも尚、多くの知識を学ぶことが必要であると思う理由を、ひとつだけ見つけられました。それは、ぼくたちが創造的でいるためです。新しいアイデアやビジョンを描ける人って、創造的だと思います。でも、世の中に本当の意味で新しいと言えるものなんか早々なくて、多くは既存のアイデアとアイデアの組み合わせです。（例えば、蔦屋書店は本屋とカフェ。）その組み合わせが、異分子であればあるほど、目新しいアイデアになるかもしれません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうなったとき、やっぱり必要になるのがぼくは知識（上記で言えば、既存のアイデアについて多くを知ること）だと思います。幅広く奥深く知識があれば、その分、幾通りもの組み合わせ（新しいアイデア）を考え出せるからです。知識を食材に置き換えると、分かりやすいです。梅干しと白米しか食材（知識）がなければ、せいぜい梅おにぎり（新しいアイデア）しか生み出せません。でも、そこに肉があって野菜が色々あれば、牛丼やビビンバなどより多くのレシピ（新しいアイデア）が考えられます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そう思うと、知識はやっぱりないよりかは、あったほうがいいなって思います。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 23 Apr 2016 06:22:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765117</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>メディアとの信頼関係</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765111</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h2&gt;＊放送法により政治的公平性を求められるテレビ。新聞は…&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;今日も少し堅苦しいですが、政治について書かせてください。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;少し前のことですが、高市総務大臣の（テレビ）電波停止発言問題がありました。これは、安倍政権に対し批判的な報道を多くおこなうテレビ局に対する、政権側からの是正勧告（放送への政治介入？）とも受け取れる一件でした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;テレビがどちらか一方に政治色を強めると上記のように問題になる一方で、”新聞”は政治的立場を明確に示しています（つまり、紙面で堂々と安倍政権を批判or擁護しています）。ぼく自身昨年末から、週替わりで新聞各紙（読売、朝日、毎日、産経、日経、東京）を試読していましたが、違いは明らかでした。例えば、安保法制や原発再稼働は、読売・産経は肯定的（安倍政権寄り）、朝日・毎日・東京は否定的です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;では、なぜテレビだけが高市発言のように問題になったのかというと、唯一テレビだけが放送法によって”政治的公平性”を規定されているからのようです。言い換えれば、テレビだけが「不偏不党に報道するように」と法律で決められています。（そもそもの放送法制定理由は、電波の数が限られているから・一気に多くの人々が同時に視聴するメディアであるため、大衆へ与える影響が大きいから。だそう）&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊目的・結論ありきの報道&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;前置きが少し長くなりましたが今回は、偏向するメディアに対し個人的に抱いた疑問について書いてみたいと思っています。※大前提として、”人”がメディアを作るので、多少の偏りが発生することは構わないし、避けることができないと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、自社の政治的スタンスを前提に、記事を作ろうとしていると見えることにはちょっと納得がいきませんでした。要は、「政権を批判しよう」（「我々は安倍政権を応援or保守だ」など、逆の場合も然り）という目的が最初にあり、そのための材料集めをしているようにぼくは思えてしまうんです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もちろん、政治的立場を明確にすることで、独自の視点で問題を論じてくれることは、とてもありがたいことです。しかし、それが行き過ぎるとそのメディア自体に不信感を抱いてしまうのです（ぼくは）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;各メディアは基本的に政治的スタンスや論調は変えません。例えば、産経新聞は、どう見ても不穏で不可解と思える動き（法案、情報開示の拒否）や不倫騒動、失言、国会での怠慢などの自民党の体たらくを目の辺りにしても、未だ現政権に好意的です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それって、友達としたら絆が深いように見えていい奴なのかもしれません。例えば、もし友人に「お前がどれだけ失敗したり悪いことしても、俺は問答無用で一生お前の味方だ」と言われたらぼくはシンプルに嬉しいです。でも、本当の友人であれば、相手の失敗を素直に認め適切なアドバイスをするべきだし、悪いことをすればしっかりと叱るべきだと思います。&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊信じられる人もメディアも&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;しかし、今のメディアは自社の主張にそぐわない情報は意図的に報道しなかったり、対立する政治的スタンスをもつ人や組織（政党やメディア）がミスを犯せばイジメのように徹底的に非難します。そんなメディアを見ていると、こっちもげんなりしてきます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは”人”でも一緒です。他人を執拗に責める一方で自らの非は認めなかったり、反対意見を無視したり、過度に自論を自分で擁護するような人とは付き合いたくありません。また、そんな人の話す全てを、ぼくは信用できなくなります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;主張すべきときは主張し、反対意見に出来るだけ耳を傾け、自分に過ちがあれば素直に認められるような良識のある人間を信じたいし、ぼくにとって、それはメディアも同様です。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 05 Apr 2016 06:19:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765111</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>価値観の硬直</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765096</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h2&gt;＊若者の意見を否定する大人&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;先日あるテレビ番組をみて感じたことを今回は書きます。その番組は、東北大映画部に所属する学生らが、あるベテラン映画監督の教えを受けながら、「震災に関する”告発”」をテーマに映画を製作していくという内容でした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;番組では、学生らが自身の考えた企画を監督に提案していました。例えば、「絆はまやかし」：震災当初こそボランティアなど絆を思わせる動きが国内外で見受けられたがそれも今では下火になり、被災者は世間から取り残されたという疎外感を感じている（ここらへんの委細は記憶が曖昧です）。つまり、だれもが信じて疑わなかった絆という概念を揺さぶるような企画です。このほかにも、（少なくともぼくにとって）告発に値する企画が多く見受けられました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、それをそのベテラン映画監督は「内面的すぎる」と一刀両断に切り捨てたり、「文学的だね」と半ば嘲笑する始末でした。さらに、映画というものは「外面的なものを映像として捉えるものだ」と続けました。つまり、人やモノの動作など目に見えるものを捉えるべきで、心理的なものは絵面としておもしろくないし、伝えることが難しいということでした。&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊大きな疑問&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;ぼくは、上記の監督の発言に多いに疑問を抱きました。そもそも、目には見えない感情（内面的なもの）を、カットを工夫するなどして表現することが、映画監督としてのあなたの仕事なのではないかとまず思いました。だから、「内面的すぎる」という否定は、監督業の怠慢なのではと思ってしまいました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;また、その監督自身も実は、人の”内面”を捉えた社会派映画を過去に製作しています。在日朝鮮人を主題に描いており、社会的価値のあるとても良い映画だと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ先ほどの”絆”も在日朝鮮人が心中に抱く”感情”もどちらも目に見えない内面的なものです。だから、学生の企画を一蹴する際に述べた「内面的すぎる」という言い訳は、監督自身が自分の意見を正当化するために、恣意的に用いた詭弁という他ないとぼくは正直感じてしまいました。&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊憂い&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;現代社会（例えば一般企業）でも、カピカピの鼻くそのように凝り固まった価値観を持つ経営上層部を構成しているおじさんおばさん連中は沢山おられると思います。そのような人々の、偏った考えを押し付けられたり、その一方的かつ理不尽な価値基準のもとに、熱意溢れる若者の新鮮で斬新なアイデアが日々潰されているのかと思うととても心配だし残念でなりません。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 19 Mar 2016 06:18:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765096</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>感じることと、考えること</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765093</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h2&gt;＊感じるままに生きてきた子供時代&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;子供のころ、サッカーの新聞記事の切り抜きをよくしていました。もっとも、今振り返れば「記事」というより、ゴールを決めるシュートの瞬間を捉えた写真がメインでした。紙面の四分の一を占めるぐらいの大きなカラー写真に、キャプションレベルのささやかな文章が添えられている程度の記事です。他にも、少年時代唯一目を通していた雑誌”サッカーダイジェスト”で眺めていたのは、上記のように写真がメインのページだけでした。その頃は、インタビュー記事や試合の詳細な分析などの長い文章を読むのが退屈だったんだと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、それ以上に思うことは、視覚を通して純粋に”感じる”ことに、少年時代は飢えていたんだと思います。少なくとも現在の自分以上に、自分の感覚を前面にして、世界に触れていたと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だから小さい頃は、毎日が発見だらけだったんです。友達と雑木林に潜り込んで自家製の秘密基地を作ったときには、木や土の匂い、肌触り、枝はどれくらいの力を入れたら折れるのかとか、そういう知恵を全て”感覚”で学びました。同じ緑色でも、緑の種類がこんなにも多くあることを知ったのもその場所でした。&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊考えがちな今の自分&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;一方で、大人になった今のぼくは感じることよりも、あれこれ考え込んでしまうきらいがあります。世界をありのままに感じることを怠っているんじゃないかって反省しているんです。例えば、美術館へ行けば作品より先に、作品脇のタイトルや説明書きにまず目を通してしまうんです。答えを一刻も早く知ろうとしてしまうんです。でも、そんな風にしていると、こんなことが起こります。仮にですが、一面真っ青な絵画があり、それに『海』というタイトルが名付けられているのを「先に」目にしてしまったら、途端に海以外の何者にも見えなくなってしまうんです。本当は、空に見えたのかもしれないのに。。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;言葉や文章による、論理的な構成や理屈も、もちろん大好きです。ただ、”まず”は自分の感じるままに、自分だけの答えを見つける方が豊かなんじゃないかって最近は思います。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 12 Mar 2016 06:19:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765093</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>こんばんは</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765074</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;今まで自分の置かれた状況や失敗を、何かと時代や環境にせいにしたり、必要以上に保身に走る（失敗してだれかに笑われるのが怖いから）ことで、行動（チャレンジ）を起こさなかったことって振り返ればぼくには多々あるんです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;このブログの開設にしたって、「あのともきがブログ…」とか「意識たかいね」と周りから言われるのではないかと、実は今も少し恐いんです。言い換えれば、周りの人が考える”ともき像”に順って、自分はこれまで生きてきたんだと思います。そこから外れるのが怖かった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;でも、そんな生き方をしていると、いつまで経っても周りが思う”ともき”以上の自分にはなれないと思ったんです。だから、ブログひとつを取っても、ぼくにとってはとてつもなく重い足ですが、今その一歩を踏み出そうとしているところです（どんだけ面倒くさがりで小心者なんだ）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;4月からぼくは肩書きを失います。会社員でもなく、学生でもなく。無職、もしくはせいぜいフリーターというところです。ただ、自分は誰でもないってことって裏を返せば、どんな人にでもなれるってことです。プラス思考で。そう信じて、これから頑張ります。その意味でもぼくは、このブログをひとつ自分の仕事として課したいと思っています。みんなが春から一斉に働き出して、精神的に慌てないために。でも、ぼくが自分に課したこの仕事は週休6日です。（いま決めた）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;続かない方が問題だと思うんで（だから、テーマも決めてません）。これから、ゆるーく綴っていきます。少しでも読んでくださる方がいれば、嬉しいです&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 28 Feb 2016 06:02:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1765074</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item></channel></rss>