<rss version="2.0" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/" xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"><channel><title>Write It Down</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com</link><description></description><atom:link href="https://writeitdown.amebaownd.com/rss.xml" rel="self" type="application/rss+xml"></atom:link><atom:link href="http://pubsubhubbub.appspot.com/" rel="hub"></atom:link><item><title>『グレイテスト・ショーマン』評 過去の切断</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/3926382</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/b422a76c570c01c2cb56a809895d5040_7d180d5f0b4d4ea00eddaa6cdf74c1c5.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;鑑賞後に感じた、物足りなさの原因は、歌パートで一気に物語を前進させられる感と、歌パートと歌パート間のぶつ切り感があるからか…&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;過程（ストーリー）のおざなりというか、奥行きがないというか、子供騙しな成功譚という感じが否めない。ただ、この映画の単純明快さを、監督は自覚した上で作ったに違いないから、“ストーリーがシンプルすぎる”などと不用意に糾弾しすぎるのは却って自らの頭のシンプルさを露呈してしまうことになる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;では、意図的なストーリーの置きざりの背後にあったのは何だったか。一つ言えるのは、コンプレックスの転換だろう。この映画の登場人物で、コンプレックスを抱えていない人はたぶんいなかったのでは。自分の貧しい出自や醜い容姿など。それを自分の中だけで閉じ込めておくと、複雑性はさらに増し、負のスパイラルに追いやられる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;過去の延長線上に未来があるのは当然だから、これからの自分は、これまでの自分に規定されがち。ただ、そうではなく、この映画の登場人物たちは見事に、 過去の自分（コンプレックス）と決別した。未規定の自分に出会うこと。背後霊のようにつきまとうコンプレックス、その切断の機能を果たしたのが、音楽だった。この映画の、（大小かかわらず）before・afterの節点には、必ず音楽があった。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;このように、過去の切断により新しい自分と出会うんだよと、この映画が伝えたかったのだとすれば、過程（ストーリー）よりも、あくまで切断（＝歌）による変身を大事にするのは、個人的には合点がいくのである。そして、コンプレックス（奇をてらうような複雑で難解）なストーリーにする必要性がないことも、同時に納得がいく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;あなたの人生は、他人が考えている以上に簡単ではないが、あなた自身で考えている以上に複雑でもない、そんな温かいメッセージも込められている。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 26 Mar 2018 15:47:31 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/3926382</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/b422a76c570c01c2cb56a809895d5040_7d180d5f0b4d4ea00eddaa6cdf74c1c5.jpg"></enclosure></item><item><title>映画『スリービルボード』終わりなき判断の保留</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/3760880</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/fd3609fcd07d8710ac625eb1148441ac_a1c7797c5adff043d7c8d69d12368840.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;エンディングにケチをつける人がいるけど、それって、エンディングまでに丁寧に描かれてきたこの映画の主題を全否定することになってしまうよ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;エンディングに対するモヤモヤ感というのは「結局犯人はだれやねん」ってことからくるものなんだと思う。ただ、個人的にはそんな風に、結果を求めがちな態度にこそ、今のこの社会の問題の根深さが現れているんじゃないかと思う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この映画で通底して描かれていたのは、意外とこの人は良い人とか、悪い人に見えるけどこんな側面もあるんだよということ。この人は◯◯な人だという判断が覆されてしまうから、どのキャラクターも憎み切ることができない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;上記が何を意味するかといいうと、判断や決断ってそう簡単にしていいものなの？てかできるの？という、結末を求めたがる私たちに対する問いかけだ。ぼくらは、物事や人に対し、線引き（区別）しラベルをつけたがる。こいつは白か黒か、右か左か、友達か敵か。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ラベル張りは、つまり結論づけだ。なぜなら、それは思考停止を意味するから。例えば、完全に黒なやつなんかいない。すべてはグラデーションだから、その灰色が白に近いか黒に近いかでしかない。だけど、それを白 or黒でラベルつけをしてしまう。一度そうしてしまえば、その人の中に潜む灰色の色調を見ることをやめてしまう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この複雑化し不確定な社会を、AorBで簡素化しようとする態度に、警鐘を鳴らすのがこの映画だ。最期のシーンで被疑者の家まで、ミルドレッドとディクソンが車で向かうシーンでのセリフにすべてが表れている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;“あいつ（被疑者）を殺す？”&lt;/div&gt;&lt;div&gt;“道々決めればいいよ”&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;このように判断を延命させ続けること。＝不毛な区別およびラベル張りから卒業すること。うまく言えないけど、これって難民問題とか、改憲 or護憲とか、昨今の社会的分断をリセットするヒントになり得るんじゃないかなとさえ思う。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;繰り返すけど“道々決めればいいよ”という言葉。それは、判断(エンディング)を保留（宙吊り）にすること。映画の形としての終わり方として、個人的には必然でありピッタリなエンディングだった！&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 25 Feb 2018 02:55:29 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/3760880</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/fd3609fcd07d8710ac625eb1148441ac_a1c7797c5adff043d7c8d69d12368840.jpg"></enclosure></item><item><title>映画「gifted」の自己決定権の無さとタイトルの意味</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/3580866</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/3f18b5150d1917d9faa85d5663262b3a_a1e15e10de34b645b9d5b5b27e9675c6.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この映画のテーマを、「天才の子どもに対する適切な教育とは？」みたいなものを想定する人たちが多いが、個人的にそれよりももっとコントラストをもって迫ってきたものは、「子どもの決定権のなさ」である。これはありきたりな言い方をすれば、生まれてくる子どもは親（生まれてくる環境）を選べない、的な話。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この作品は思った以上に、少女・メアリーの天才性よりも、少女を取り巻く大人たちに焦点が当てられている。法廷、育ての親である叔父（フランク）と少女の先生が愛を育む地元のバーや自宅のベッドなど、少女には見えない場所・少女とは似つかわしくない場所でストーリーが展開される。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;そして、それらはいささか滑稽であり、少女・メアリーのことが気の毒で仕方なくなるほどだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;例えば、親権争いという大人の事情に勝手に振り回されるメアリー。（自殺について悪くいうつもりはないが）勝手に母親に先立たれ、実の父からはなんの心配もされず放置・無視される。しかも、その事実を勝手に祖母（イブリン）の法廷闘争のダシに使われ、さらに叔父が容赦なくメアリーにその事実をありのまま伝える。お前の実父は、お前を見捨てた、と。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;他にも、大人たちが作った司法制度に振り回されるメアリー、子どもを所有権扱いする司法制度。ずっと一緒に暮らすことを叔父に約束してもらいながらも、急に祖母が現れ、親権争いの妥協案として里親に出され、かと思えば結局は元の叔父と暮らせることに。まじメアリーの翻弄され具合が半端ない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;決定権を剥奪された子ども。自分（＝メアリー）の意思（叔父のフランクと生活したい）は司法制度に邪魔をされる。というか、そもそもメアリーの意思が法廷の場で尊重されるシーンがない。生まれた時、すでに存在していたシステム（司法制度をはじめとした諸制度や慣習）に便乗する以外のことができない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;つまり、あらかじめ決められた環境に身を投じられる以外の方法を持たない。親も選べなければ、人種も国も、自分の才能もだ。天才的な数学センスも、彼女自身が選び取ったわけではない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ただ、この映画のなかに救いがあるのも確かだ。ではその救いとは何か。そこで映画の表題「gifted」の意味につながっていく。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;h3 style=&#34;text-align: left;&#34;&gt;Giftedの意味&lt;/h3&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;物語終盤、メアリーの祖母・イブリンは、超難問を解き明かした生前の娘（メアリーの母）の遺言的論文と、娘直筆のメモを目にし涙を流す。これが「gifted」の象徴的なシーンである。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;このとき、イブリンはふたたび娘を授かったのだ。いわば、遅れてやってきた出産。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;娘が生きていたときは、スパルタ的な英才教育を施し、とてもじゃないが良好な親子関係とは言い難かった。しかし、論文を目にしたとき、初めてそして本当の意味で、イブリンは（今は亡き）娘と出会うのだ。そして、そのきっかけを生んだのは、まぎれもなくメアリーなのだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;このように、歴史は過去から未来へトップダウン的に常時一方向に流れているように見えるが、実は「gift=授かり」は遡行するのだ。産み落とされた時点で「gift」であり、あらかじめ決定された環境に諦めつつ生きていくだけでも、意図せずして誰かにとっての「gift」になり得るという希望がある映画だと思う。そして、そのgiftは時に世代を遡ったり、海を渡ったり、文化圏を越境したりする。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 22 Jan 2018 16:07:33 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/3580866</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><enclosure length="0" type="image/jpeg" 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src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/b3950b7279d2025288da5749c37da171_e49c142d7e5aba9314ea67b7b790bad9.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;あの円環型表意文字や主人公のフラッシュバック、セリフからも導かれるように、時制の消滅と、過去と未来の同一化(区別のつかなさ)は、未来を称揚するためでなく、過去と未来をフラット化するための試みである。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;それによって、相対的に浮かび上がるのが、「現在」だ。しかしそれは、自己啓発界隈で最近よく見かける「未来なんて分かるわけないから今この一瞬を精一杯生きるしかないんだ」といった”点”形的なメッセージでなければ、「過去の延長線上に未来があるのだから計画的に現在を生きなさい」といった”直線形”的なメッセージでもない。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;つまり、この作品は過去と未来の均質化によって、「現在」を相対的にポップアップさせることで、「現在」という概念さえも形骸化させるという逆説を生む。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;どういうことかというと、概念（＝意味）はすべて差異から生まれるものだから、「現在」しか存在しなくなると…つまり過去や未来という比較対象を意図的に失わせることで、「現在」という概念自体の存在基盤を脆弱にする。&lt;/span&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;結果的に、この作品は、「現在」からの離脱をも説いてる。プラットフォーム自体を疑え、と。では、まず何を疑うのか。それは、第一に「過去～現在～未来」という時制だが、その次は「自分の記憶」だ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;記憶は、当然だが過去と強固な結びつきを持つ。普通に考えると、ぼくらは過去を記憶することはできても、未来は記憶できない。未来はまだ来ていないし、分からないから。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ただ、この作品の主人公の彼女は、宇宙人の表意文字を習得するうちに、だんだん未来が見えるようになっていき、過去のデータベースであるはずの記憶に、”未来”が交じり始める。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ここで、SF特有の非現実感が苦手な人は、「こんなのありえねーだろ、未来なんか記憶できるかボケ」と突き放してしまいそうだが、それにはまだ早い。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;というか、そんな彼らも知らず知らずのうちに、未来を内在化させている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;記憶というものが、いかに曖昧であるかはぼくがここで改めて言わなくとも、経験として、あるいはどこかの記事で見た人はいるはずだ。記憶は捏造できるし、ときに自分で自分を騙す（例：”思い込み”のようなもの）ことさえある。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;では、ぼくらはいつ、どのタイミングで、「未来を記憶しているのか」。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;それは、日々のニュースで見る、家族を殺された被害者であったりもすれば、ドキュメンタリー番組で見る差別や貧困に苦しむ人だったり、はたまた週刊誌に激写されるようなプレイボーイだったり、カンブリア宮殿にでてくる敏腕経営者だったりする。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この例でぼくが意図しているのは、なにか。それは、ぼくらは絶えず、だれかの人生を垣間見ているということだ。そして、彼らは、自分自身の将来に起こりうるかもしれない未来像であり鏡である。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;整理すると、ぼくらは、他者の体験を無意識的に、自分に反射させている（内在化している）。要は、他者の感情や経験を、一旦、自分に置き換えている。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;それは、自分の未来を投影させているといえないだろうか。ニュースでみたあの人のように、将来自分もなるかもしれない、と。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;世間には既視感という言葉がある。ぼくらの身の回りには、ぼくらの未来で溢れている。だから、ぼくらはどんな未来がこようと基本的には驚かない。すでに他者の経験をもってして自分の未来をシミュレートしているからだ。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;スクリーンの中ではなく、現実世界を生きるぼくらも、そうやって自分の過去と、自分の未来の記憶を交ぜ合わせながら生きている。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 03 Dec 2017 06:20:48 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/3335560</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/5da8968e3319e208d5121f7498f3f658_ccf836373633faf1c568870894beca66.jpg"></enclosure></item><item><title>沢木耕太郎の言葉から</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/2045736</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;深夜特急シリーズで有名な沢木耕太郎が映画にまつわるあるエッセイでこう話していた。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;『大人は過去を、子供は未来を映画に投影している。年をとるにつれ未来への夢よりも、過去の記憶の方が意味を持つようになる。』&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;なるほど。過去が豊富な大人は映画に出てくるキャラクターに過去の自分を重ね合わせることができる一方、子供はもともと過去（経験と言い換えてもよいだろう）の絶対量が少ないため、過去の投影は難しい。だから、アクションものや戦隊もののヒーローに、自分の未来、将来像を重ねる。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;沢木氏が言うように、大人は思い出を大事にしすぎる傾向があるのかもしれない。それは、同時に今の自分を、過去によって規定させてしまうことをも意味する。かわいいかわいい自分の過去をひたすら踏襲する先になにがあるのだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「敷かれたレール」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;という言葉をよく聞くけど、敷”かれている”のではなく、実は自分で敷いているのだと思う。過去の自分によって無意識的に。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;人間、人生のどこかでそれまでの過去の自分とは何の脈絡もない「意味のわからないこと」をするべきなんじゃないかってたまに思う。過去の自分を裏切るために。過去の自分に現在の自分を縛り付けられないために。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 21 Feb 2017 13:59:38 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/2045736</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>ESSAY</category></item><item><title>演じることについて（３）</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/2010661</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h3 style=&#34;text-align: center;&#34;&gt;&lt;span style=&#34;font-weight: normal;&#34;&gt;演技の多重性&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;前回は「二重の演技」と題して、実生活上と舞台上の両方で演技する役者について書いてみたんだけど、実際はさらに複雑だ。役者の意識は、もはや二重どころではない多重構造になっていると思う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;どうしてなのかっていうと、役者は舞台上で自らが演じる役柄の実生活上の演技(前回の投稿でいう”やくしゃ”)もしなければいけないからだ。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p data-placeholder=&#34;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;現在興行中の『ロミオとジュリエット』のロミオ役を演じる大野拓朗を例にあげる。大野拓朗はロミオを演じるが、舞台上でさらに様々なロミオを演じなくてはいけない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;『ロミオとジュリエット』というストーリーは、ぼくらからしたら空想にすぎないのだけれど、ロミオ自身にとっては実生活そのものだ。したがって、実生活でぼくらが誰（家族、友人、職場の人間など）と居るかどうかで一々言動を変える現象は、ロミオ自身にも当てはまる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;つまり、大野拓朗は①ジュリエットといるときのロミオ②友人と過ごすときのロミオ③家族といるときのロミオなど様々なロミオを舞台上で演じなくてはいけない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;ぼくたちは分身をひとり、ふたり作るだけでも気苦労を起こすが、役者はそれに見境がない。役者（大野拓朗）は自分の分身（ロミオ）に、さらに分身（ジュリエットといるときのロミオ、◯◯といるときのロミオ・・・・）を作らせなくてはいけない。分身に分身を重ねる役者にとって、自分とは何だろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;役者が自らを一人称「わたしは」を使用する場合、それはロミオを指す場合もあれば、歴史上の偉人かもしれないし、殺人犯であるかもしれない、いやはや本当の意味での自分（戸籍上の自分）を指す場合もあるだろう。そうやって、何者かを演じる限り果てなく増殖する自分を、役者はどう捉えるのだろう。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 13 Feb 2017 03:29:04 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/2010661</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>演じることについて（２）</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1967590</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h3 style=&#34;text-align: center;&#34;&gt;二重の演技 &amp;nbsp;&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&#34;-webkit-text-size-adjust: 100%;&#34;&gt;ぼくらは毎日、無意識的にではあるけれど何らかの役を演じている。例えば職場の自分と、仲のよい友だちと居る自分とでは、物理的には同じ自分であるが精神的には違う自分が存在している。また、「職場」で上司と話すのと、「飲み会」で上司と話すのでは、同じ人物が相手でも状況や場所によって、やはり自分の性質は異ってくる。（職場と比べ、飲み会という場の方が上司に対しリラックスして接している自分がいるはず）&lt;/span&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;そうやって、役者を本業としないぼくら一般人でさえも、誰しもが自分が属するコミュニティの数だけ、あるいは自分が居合わせた状況の数だけ、自分の分身を作り日々何かを演じている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;それだけでも何だか奇妙に感じられるけれど、本業の役者はそこにさらに演技を重ねる。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;生まれながらにして、と言ってもよいほど人間だれしもが「やくしゃ」であり、それはこの社会で生き抜いていくためには、たぶん避けられないことでもある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;i&gt;＊この記事でぼくは便宜上、この現実社会から追放されたり仲間はずれをされないために誰もがほぼ例外なく行う演技や小芝居（自分と対峙する人物が誰であるのかによって、自分の言動をその都度変えること）をする人を「やくしゃ」と言い、映画や舞台上で行われる多くの人が一般的に想像するいわゆる演技をする人を「役者」と言う。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/i&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;例えば、小栗旬であっても後輩俳優を引き連れている時と、蜷川幸雄と対峙していた時とでは、言動に差が出ていたはずだ。その点では、というのは、つまり現実社会をそつなく円滑に生き抜いていくために「やくしゃ」を演じるという点では、ぼくら一般人と変わりない。ただ、「役者」はそこ(=「やくしゃ」である自分)に、さらに上書きするように舞台上やカメラの前で演技を重ねる。つまり、小栗旬は「やくしゃ」であり「役者」でもある。逆にぼくら一般人は「やくしゃ」ではあるが「役者」ではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;ぼくが、演じるということについてむずがゆさを感じたのはそれだった。「やくしゃ」が「役者」をする。普段の私生活で何かしら演じているのに、カメラの前で舞台で、さらに演じるのか〜と感嘆してしまった。現実世界と、そして映画や舞台などのフィクショナルな仮想世界とで、二重に演技を重ねる「役者」に、ちょっと驚いたし尊敬した。それが、ぼくなりに感じた二重の演技の意味です。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 03 Feb 2017 05:34:49 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1967590</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>演じることについて（１）</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1954709</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;ぼくは単純に映画やテレビドラマとの接触回数が多いばかりに、&amp;lt;演技&amp;gt;というものを機械的にそれらと結びつけ過ぎていた。考えてみれば当たり前なのだけれど、演技というものは何も映画やドラマに出演する役者の専売特許ではない。&amp;lt;演技&amp;gt;を、肉体を駆使したパフォーマンスアートという広い枠組みで捉えてみれば、演劇はもちろん、オペラやダンス、音楽、バレエ、大道芸、漫才など実に様々なものを含んでいる。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんな当然のことを改めて気づかされたのは、先日の宝塚歌劇鑑賞がきっかけだった。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;宝塚ファンからは怒られるかもしれないが、観劇中ぼくは思わず笑いをこぼしてしまうことが何度かあった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;ちなみに、ぼくが見ていたのはコメディ作品ではなかったし、また笑みを浮かべたときは、会場に笑いが起きるような場面ではなかった。むしろ、気持ちの高ぶりによって身体を震わせるように舞う役者の演技と、それに共振する観客の熱気とで、会場のボルテージが最高潮になろうとしている瞬間に、ぼくは不意に笑みをこぼしてしまったのだ。&lt;/div&gt;&lt;p data-placeholder=&#34;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今になって振り返ると、自分が思わず笑みをこぼしてしまった要因は、そこにあったと感じる。自己（ここでいう自己は、作品で演じる役名でも、普段の役者活動で使用している通名（ペンネーム的なもの）でもなく、自分の戸籍上の本名に付随するその人自身の性格や歴史）をかなぐり捨てるようにして、力強い眼つきや流麗とした声色と立ち振る舞い、そして豪奢な衣装やメイクで、舞台上に自分の肢体を捧げる役者たち。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、ぼくの笑いは、これら大袈裟とも言えるほどの、溢れんばかりの役者の感情表現を受けてのことだった。誤解を恐れず言うのであれば、あのとき全てが過剰だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;ぼくには、顔がちぎれるくらいの笑顔や、顔がしおれて枯れてしまいそうな悲しい顔はできないし、リズムに合わせて身体を揺らしながら誰かの名前を歌うようにして呼びかけたこともないし、そんな人を見かけたこともなかった。今まで自分が享受してきた他者からの感情表現を、圧倒的に超越する演技だったから、ぼくの脳はそれをうまく飲み込むことができず不意に笑みがこぼれてしまったのだと思う。(彼女ら役者の人たちは、「バイバイ」という何気ない台詞ひとつにしても表情や身振り手振り交えて全身全霊で「バイバイ」を表現する。普段ぼくらは「バイバイ」と言う事に本気を出すはずもなく、ぶっきらぼうにそれを言っている身にしたら、彼女らのはじけんばかりの感情表現に衝撃を受けるのは当然ともいえる)&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;だから、笑みの正体は、役者の感情表現がぼくの脳にオーバードーズされ、処理能力の限界を超えてしまったときに起こるコンピューターのバグみたいな反射運動だったのだと思う。&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 31 Jan 2017 13:35:25 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1954709</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>二度目の宝塚歌劇</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1923489</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;先日、宝塚歌劇月組公演『グランドホテル/カルーセル輪舞曲』を見てきた。自分にとって四年ぶり二度目の宝塚鑑賞であったのだけれど、今回の方が随分感動した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;男役トップスター（宝塚歌劇だからもちろん女性）は、もはや男でも女でもない別種の性を確立していた。そして、舞台袖の目立たないところで踊っている成長過程の新人とみえる役者が、眼と表情、発声、両手足、自分が持ち得るすべての表現手段を動員し、まるで自分が主役かのように演じる様子は、例えスポットライトが当たらなくとも寸分の手抜きを許さない覚悟と気迫を感じ、社会の隅で生ぬるい生活を送っているぼくの心を強く打った。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;ところで、今回の公演で目についてしまったのが、前の座席で団体客として観劇に来ていた小学校３、４年生と思しき子どもたちの落ち着きのなさである。公演途中でトイレにでも行くのか席を外したり、退屈そうに身をよじらせたり、友達のオペラグラスを奪いとろうとしたり。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;といっても、ぼくはここで小学生のマナーの悪さを糾弾したいわけでは全くない。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;自分自身、小学生のころ学校行事として、ある舞台を見にいった記憶があるけど、今では何の演目だったのかは覚えていないし、舞台よりも脇に掲げられた時計を気にしていた気がするからだ。だから、ぼくは彼ら小学生を生意気に説教できるほどの人間ではないし、何より自分がかつてそうだったから目の前の小学生らの気持ちが分からなくもない。そして、この観劇体験が彼ら小学生の脳裏になんらかの爪痕として残され、今すぐでなくとも後になって何かが花開くのではないかと信じていたから、自分なりに彼らを温かい目で見守っていたつもりである。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;むしろ、ぼくが、小学生らが退屈そうにする様子を見て疑問に思ったのは、どうして年齢が若いほど(一般には、子どもほど感受性が高いと言われているにも関わらず)この種の体験に感銘を受けにくいのかである。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;というか感受性について言えば、小学生のころは人前で話すことが平気だったのに、段々と歳を重ねるにつれ、それに恥じらいや緊張が伴ってくるのは、たぶん他者の視線を過敏に”感じる”ようになったから。その点では、大人になるほど感受性が高まると言えてしまう気がする（逆に、幼いころ人前で緊張しなかった理由は、他者の視線に”鈍感”だったからとも言える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;また、大人になると空気を読むことを覚えるのも、大人の感受性の高さを示す証左になりそう。)&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;大人の方が感受性豊かなのかな、難しい。脳の構造とか、子どもの教育に詳しい人とかに意見を聞いてみたいね。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 23 Jan 2017 04:49:03 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1923489</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>ESSAY</category></item><item><title>ある映画をみて感じたこと</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1898102</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;先日、友人に誘われてある映画を観に行ってきた。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;1976年にデビッドボウイ主演で製作された『地球に落ちて来た男』という作品。デビッドボウイが亡くなってから1年、その追悼記念として神戸のアートビレッジセンターにて再上映されたのだ。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;次に、本来であればこの映画のストーリーを、結末は明かさない程度にここで紹介することが、映画をわざわざこのような場所で取りあげる上での定石だと思うのだけれど、そうすることが何とも難しい作品だったのである。（それは、もちろんぼくの理解力に問題があった可能性もあるのだけれど）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;つまり、二時間強ある尺のなかから、一筋の通底した主題や物語性、この映画（監督）が意図するメッセージを汲み取ることが難しい断片的な映画だったのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;正直、この映画を見終えた際に「半端なかったー、超よかった」と感じる人は、よほどデビッドボウイに肩入れしている人もしくは独特な価値観を持っている人に限られてしまうのではないかと思ってしまう。だから、基本的にこの映画を友人に快くおすすめすることはできない。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;では、なぜそんな作品をこのブログで取り上げたのかというと、あることに不意に気付かされたからである。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;それは、あらゆることに対し過剰に意味を要求してしまう自分の存在である。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;いまの社会は意味が支配していると感じる。ビジネス（仕事）でも受験勉強でも、就職活動でも何でもいいけれど、まず目標を設定しそれを実現するための行動が基本的には「意味がある」とされる。裏返せば、目標実現につながらない行動は、「意味がない」とされる。 ぼくもそのような思考を持っていた。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、一方でこういった社会に窮屈さを感じている人がいることもまた事実であると思う。そして、そんな意味が支配する社会から逃避することは、さして悪いことでもないし、むしろ良い場合もあると思うのだ。意味が支配する社会では、道草すること（目標実現につながらない行動）はあまり褒められたものではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;ただ、道草には思いもよらない変化や成長を与えてくれたりする効果があることも広く認知されるべきだと思う。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;少し脱線してしまったようにみえるけど、デビッドボウイの映画をみてぼくが新たに思えたことは、「意味がなくたっていいじゃない」というような、ゆとりを持つことの重要性だ。たぶん、ぼくは無意識的に、映画とは人の心を動かす・人生をかえる・社会問題を告発するものだと、上映前からどこかで期待を抱きすぎていたのだと思う。そんなスタンスは捨て去って、「この世界、意味なんかなくて当然。もし意味があったのなら御の字」というようにもっと肩の力を抜き、偶然の出会いに心を開いておく余裕があってもいいんじゃないかって。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もちろん、道草ばっかはしてられないのはわかってる。意味の追求か、それの放棄。どちらか一辺倒になるのでなく、両輪持っていたい。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 17 Jan 2017 14:50:13 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1898102</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>格差の末に</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1851265</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;先日、日経新聞にこんな&lt;a href=&#34;http://www.nikkei.com/article/DGKKZO11245300R31C16A2MM8000/&#34; class=&#34;u-lnk-clr&#34;&gt;インタビュー記事&lt;/a&gt;が出ていた。その中で、「反グローバルのうねりが出ています」という記者の一言に対し、教授は以下のように述べた。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;「英国の欧州連合（ＥＵ）離脱決定やトランプ氏の当選は、所得の二極化が背景にある。トップ層はいつまでも金持ちなのに、中産階級より下はどんどん所得が下がっている。昔はアメリカンドリームで成功するチャンスがあったが、今は少なくなっている」&amp;nbsp;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;僭越ながら、ぼくはこの発言に対し物申させていただく。&amp;nbsp;まず、この短い発言の中でこの教授は２つ過ちを犯しているとぼくは思っている。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;１つは、アメリカンドリームが以前よりも難しくなってきているという発言。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もう１つは、所得格差拡大の要因を、アメリカンドリームの減少（ドリームの実現困難性の高まり）としてしまっていること。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;まず前者について。ぼくは、教授と真逆の考えで、むしろアメリカンドリームは以前より、実現しやすくなってきていると感じている。例えば、InstagramやYoutubeなどのSNSから生まれた芸能人は最近よく見かける。また、無名でも実力さえあれば、自分の小説やアート作品などを発表できるプラットフォームがもう既に整備されている。そこから生まれたスターももういるはずだ。&#xA;従って、社会構造の進化によって、昔より自分の声を不特定多数のだれかに届けやすくなり、才能と努力がある人にはしかるべき恩恵が報われる社会が一部では実現しつつあると思っている。だから、アメリカンドリームの門戸は昔より開かれたと考えている。（というかそうであってほしいと信じてるところもあるんだけど。）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;後者（所得格差の原因を、アメリカンドリームの減少としてしまっていること）について。これは超シンプル。この教授はアメリカンドリーマー減少を半ば残念がっているが、巨万の富を得てしまうアメリカンドリーマーが増えてしまえば、さらに格差は拡大しちゃうでしょ。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p data-placeholder=&#34;&#34;&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;本当の原因は、昔だったら、普通に働いていれば普通に享受できていたであろうリターンを、今の時代は受け取りにくくなっていることに原因があると思う。アメリカンドリームの成功とかそんなダイナミックな話でなく、国民の多数を占めるであろう、これといって秀でた能力がないもしくはそれに気づいていない人々の、一歩の前進に対しその一歩分だけの対価を払うこと。&#xA;&#xA;例え資本主義社会でも「どうせ頑張っても無駄だ。」が蔓延すれば、社会主義の悪い部分として語られる典型パターン「頑張らなくても給料もらえるから、頑張らなくていいや。」と、ほぼ同等な状況に堕してしまう。&#xA;このように過剰格差容認資本主義の末は、社会主義的怠惰が待ち受けているのではないかと危惧している。 &amp;nbsp;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Thu, 05 Jan 2017 09:15:22 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1851265</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>POLITICS/BUSINESS</category></item><item><title>「大人」は何も表さない。「二十歳以上」という意味以外のなんの形容にもならない。</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1845086</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;年長者への特別な敬意など必要ない。あくまで個人的見解に過ぎないけど、わりかし本気でそう思っている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;ぼくは、頻繁に公共の図書館へ足を運ぶが、新聞コーナーに「盗難はおやめください」という趣旨の張り紙が貼ってあり、雑誌置き場もところどころで「今月の『◯◯１２月号』は所在不明になりました」と遠回しに盗まれた旨を示す札が貼られていたりする。ぼくはその図書館で新聞を読む若者の姿を見たことがないし、盗まれた雑誌は中年向けの雑誌がほとんどだ。というか、そもそもティーン向けの雑誌はその図書館には置いていない。つまり、これらは大人による犯行だと断定してもよいとおもう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これに限らず、「自分は、人の悪いところだけを見ようとしているのではないか」と自己嫌悪に陥りかねないほど、この手の大人のマナー違反は枚挙にいとまがない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;就職活動や接客業をしてみたりとここ一年、二年は多くの大人と出会う機会があった。尊敬できる大人に出会えた一方で、大人に幻滅することもあった。まあ常識的に考えればそうだ。良い大人もいれば悪い大人がいて、悪い大人もいれば良い子どももいる。おっさんやおばさんになっても新聞を盗んだり店員にキレたりする輩もいれば、１０代で組織を立ち上げ社会問題の解決に取り組む人もいるわけで。もはや、年齢に大した意味は持たないのではないかと思う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;だから、ぼくは20歳を境にした「大人と子ども」という括り自体に懐疑的になり、「大人だから」「目上だから」という大した根拠も中身もない理由で特別に敬意を表する必要はないと思った。&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、ぼくは年長者に敬意を表さない訳ではない。年長者にも敬意を表するが、それは「年長者だから」という理由でなく、敬意はひとりひとりの人間すべてに表するべきだと思っているからだ。だから、年齢や役職が下の人に対しても尊敬の念を持って対峙すべきだと思う。また、相手が年上だからといって過剰にへりくだる必要はないと思う。ある一定以上の敬意が担保されているのであれば、年上に対する敬意の度合いと年下に対する敬意の度合いは同等で構わないと自分は思っている。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 03 Jan 2017 14:17:44 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1845086</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>みんながみんなグローバル人材にならなくてはいけないのか</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1813626</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;「グローバル人材の必要性」をマスコミが喧伝し、それに尻を叩かれるような形で各大学が「国際なんちゃら学部」を乱立させるという動きが少し前まで盛んに行われていたように感じる。しかし、日頃ニュースに関心のある方ならご存知の通り、グローバル経済の基軸であるEUやTPPからの各国首脳級人物による離脱宣言、移民抑制を狙う極右政党の世界的台頭など、時代の風向きは着々と内向きへ変わってきている。また、日本国内だけを見ていても、いよいよ首都圏の過密でストレスフルな生活から逃れる手段として、田舎の魅力を再発見・後世に遺そうとする地方創生の取組みとして、訪日外国人観光客にもっとディープで昔ながらの日本を楽しんでもらう試みとして、グローバル経済に一番近いと思われる東京から地方へ回帰する動きがある。これらのニュースだけを鑑みたらとてもじゃないが、「若者よ、みんなグローバル人材になろう」みたいなことはまともな大学であれば、今では恥ずかしくて言えないはずである。&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、自分はグローバル人材の必要性を全否定しているわけではない。むしろ、今の混迷した世界状況を安定化させるためには、これまで以上に高度なグローバル人材が必要になると思う。つまり、量ではなく質の問題だ。偏差値70台から30台まで首都圏から地方までのあらゆる大学で「国際なんちゃら学部」を作る必要がないと思うだけだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&amp;nbsp;また、グローバル人材は言語の問題だけでなく、価値観や生活習慣などの文化の違いを受け入れる（寛容する）こと、平たく言えば多様性のある社会でも生き抜く能力が必要だとよく言われる。しかし、これはもはやグローバル人材だけに必要な能力とは言えない。人種的な多様性に乏しいといわれる日本社会であるが、多様性がないわけではないのだから。同じ肌の色で同じ日本語を話し同じ日本という文化圏で暮らしていても、考え方や話し方、普段の生活、仕事や人生に対する価値観は人によってまちまちだ。つまり、日本人ばかりの日本社会にも、立派な多様性が存在している。 日本だけでビジネスを行っている企業でも、相手の価値観を尊重できず自らの価値判断を相手に押し付けようとする前近代的な企業は、今後さらに人材不足が顕著に現れるであろう日本社会では容赦なく淘汰されていくに違いないとぼくは思っているし、そうなってしかるべきだとも考えている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまるところ、グローバル人材再考の時期に来ていると勝手に思っています。グローバル人材の第2フェーズ。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 25 Dec 2016 06:23:21 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1813626</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>POLITICS/BUSINESS</category></item><item><title>CULTURE</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/pages/763359/blog</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;記事一覧&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Mon, 12 Dec 2016 15:14:03 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/pages/763359/blog</guid></item><item><title>日本のファッション誌について</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771249</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;蔦屋書店で国内外の雑誌を漁っていると、日本のファッション誌の異質さに気づく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;海外ファッション誌は、ビジュアルを多用しその雑誌ならではの世界観丸出しで、「見せる」内容という意味では、アートブックさながらの様相を呈している。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;一方、日本のファッション誌は、ファッションの装い方、例えば「袖捲りは、◯回折り返す」「ゆったりしたシルエットのボトムスを選ぶなら、トップスはコンパクトにしAラインを演出し、云々」など教科書的な性格が強い（ことに女性誌では）。少なくとも蔦屋書店に置いてある海外ファッション誌で、スタイリングについてとやかく指南するようなページは見たことがない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;言ってしまえば日本のファッション誌は、読者をなめている。「あなたたちダサいから、わたしたちが着こなしを教えてあげる」と言わんばかりの上から目線。むしろ、「いつまでダサい子供でいて、この雑誌を買い続けてね」と、おしゃれ初心者のファッション誌への依存体質を強固なものにし、彼らをドル箱に育て上げようとする読者の自立を促さない親バカたちのようだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ちなみに、欧米のファッション誌を褒め称えているわけでは全くないし、着こなしを教授するファッション誌もあってしかるべきであると思う。ただ、国内の数あるファッション誌が、総じて教科書的性格に同質化している現状に嫌悪感を抱いているだけです。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 11 Dec 2016 15:10:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771249</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>TOP ENTRY</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com</link><description></description><pubDate>Sun, 11 Dec 2016 05:47:06 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com</guid></item><item><title>POLITICS/BUSINESS</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/pages/761850/blog</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;POLITICS&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 11 Dec 2016 05:47:06 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/pages/761850/blog</guid></item><item><title>カウンターカルチャーの脆弱性（補足）</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771247</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;ジャックケルアックの『オンザロード』を代表とする文学運動ビートジェネレーションも、いわゆるカウンターカルチャーのひとつとされる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、訳者の青山南氏が確かあとがきにこんなようなことを書いていた。それは、ケルアック自身は「カウンターしよう」なんて全く思っていなかった、ということ。彼は権力に反抗しようなんてこれっぽちも思ってはおらず、社会が勝手にそう（カウンターとして）捉えただけのこと。かつ、政治やマスコミがそのように利用したに過ぎないということ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;たぶん現代でいえばSEALDsもカウンターカルチャーに入るだろう。この人たちも、最初のきっかけは特定秘密保護法に個別に反対していたに過ぎなかったが(つまり、法案に反対していたのであって反権力ではなかった)、当時の民主党や共産党に憑依あるいは乗っ取られ、あるいは利用された。（SEALDsもSEALDsで彼ら政治家を利用したと思っているだろうけど）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そして、結局のところ端から見れば「はいはい、いつもの反権力ね」というイメージが付与されてしまった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もっとも、昔の学生運動と比べ、非暴力的な運動で、音楽やデザイン、SNSなどあらゆる手法を用いてデモを身近にさせたのは、大きな進歩だと思います。彼らの「主張」を否定する保守派論客は普通にいるにせよ、彼らが新しい形のデモを生み出したことまでをも否定しようとする論客は自らの主義主張思想に縛られた可哀想な人たちであると思う。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 06 Dec 2016 15:09:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771247</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>カウンターカルチャーの脆弱性</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771241</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;アメリカにおけるベトナム反戦運動、公民権運動、ドラッグやフリーセックスを象徴とするヒッピー文化。日本における６０年７０年安保に付随するかたちで発生したマルクス主義的な学生運動・左翼運動。また、それらと精神を通わせる文学や音楽などの芸術なども含めいわゆるカウンターカルチャーと称されることがよくあります。それらは、しがらみや規律を嫌い自由を求める若者にとって、大きな求心力を持ちました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今回は、「反権力「反体制」という姿勢から生まれたカウンターカルチャーを分析し、カウンターカルチャーに対するカウンターとして、ぼくなりのカルチャーのあるべき姿について書きます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;とは言いつつも文章が長すぎても退屈なだけだと思うので、簡潔に言う。反権力・反体制のいわゆるカウンターカルチャーの弱さとは、自立できない点にあると思う。かれらは、反権力と言うくらいだから、権力が存在することが前提となっている。つまり、権力や体制が存在していなければカウンターカルチャーも存在し得ないという他者（権力・体制）依存に陥ってしまっている。その点において、権力が変わればカウンターカルチャーのスタンスも変わらざるを得ないという脆弱性がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だから、本当に目指すべきカルチャー像は、権力や体制、さらに世俗から超越したものだと思う。それは、だれの関与も受けず、だれからも存在を規定されない自立した文化であると思う。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 06 Dec 2016 15:08:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771241</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>OPINION</category></item><item><title>小津映画の違和感を紐解く</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771239</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;みんなは小津安二郎の映画を見たことがありますか。昭和を代表する映画監督らしいのですが、自分が初めて小津映画を見た時は、違和感を感じまくりでした。母から「淡々とした映画だよ」ってことだけは事前に言われていたので、それは覚悟していました。でも、それ以外にも何かと違和感ポイントがたくさんありました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんないくつかの違和感のなかでもひとつ取り上げたいのが、整然とした構図や短い簡単なセリフの繰り返し、奇をてらわない単純なストーリー展開などから見受けられる、微塵の妥協も感じられないほどまでに徹底された”雑駁性の排除”です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;最初は意味不明でした。日常のどこを切り取ればこんな色彩的配置的にバランスのある画を切り取れるのか（これは小津への賛美というよりも、「こんな日常存在せんやろー」と非現実的なまでの小津の美的感覚を不思議に思った）。また、「飲もう、飲もう」「そうだね、飲もう。うんと飲もう」（これは、小津映画に実際に登場したセリフではなく、便宜上仮定した俺のアドリブセリフ）みたいな、平易な単語を不自然なほどに繰り返す様子。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;なんでだろう。と思い、蓮實重彦の有名な小津評論やその他の評論を読んでみたものの不可解なままでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;でも、それからしばらくして、「もしかしたらこういうことかな？」と一筋の光みたいなのが見えるようになったのです。それは、巷にあふれる広告コピーに対する嫌悪感を抱いたときがきっかけでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;商品名を入れ替えたら何でも応用できそうなキャッチコピー、いかにも「うまいこと言えたでしょ」感が漂う語呂合わせコピー、一見すると語感は良いけど恩着せがましい偽善コピー。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そういうなにか装飾や脚色にまみれさせて本質を打ち隠すような広告コピーと比べると、小津映画は構図からひとりひとりのセリフまで不純なものを徹底的に排除している。「良いこと言ってやろう」というようなだれも頼んでもいないのにわざわざ観客に教えを説くようなことは決してしない。そんな小津の無垢な世界観というのは、「してやったり」感を覚えさせる陳腐でこってりとし胃もたれを起こしてしまうようなコピーより、アレルギー反応なくそっと心のうちに入り込んでくる。それが、小津映画の魅力だとぼくは思っています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、だらしなく、煽るようなキャッチコピーで溢れかえった世界に慣れきってしまった現代人にとっては、整然とした小津映画に、最初は違和感を感じずにはいられないのもまた事実ではあるのですが…&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sun, 04 Dec 2016 15:08:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771239</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item><item><title>流行語大賞</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771234</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;「神ってる」じゃ、５年後１０年後このワードを聞いても２０１６年を何も思い出させないよー。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これはカープファンにとっては失礼に値するのだろうか。ただこれはなんか違う気がするのです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;”若者言葉だった「神ってる」が、広島カープによって巷のおじさんにまで浸透したため。”ってのが選考委員の言い分らしい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「神ってる」っていうワードが既に今年より前から一般化してる若者にとっては、何の新鮮味もなくシラけてしまう結果。(自分はその言葉は使わないけど)&lt;/p&gt;&lt;p&gt;てか、そもそも大概の場合、流行は若者世代から端を発するものなのに、選考委員の年齢が田舎オブ田舎の井戸端会議状態なのはどういうことだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;個人的には年齢問わず不気味な人だかりを作らせた、ポケモンGOかなと思う。引きこもり解消や被災地へ多くの人の足を運ばせる一方で、駐車違反や”ながら運転”による交通事故死など、いい意味でも悪い意味でもニュースを賑わせた。また、拡張現実や位置情報ゲームの普及元年という意味でも。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ちなみに、ポケモンGOはダウンロードさえしたことはありせん。好きだからこうやって肩入れしているとかではなく、本当に流行語について冷静に考えてそう思いました！&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Thu, 01 Dec 2016 15:07:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771234</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>ESSAY</category></item><item><title>おすすめ番組</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771232</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;どこもかしこもアメリカ大統領選の予測を大ハズししたとき、ふと思い出したテレビ番組がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、NHK『ニッポンのジレンマ』という（個人的に超絶おすすめの）番組だ。毎月月末の放送なんだけど、前回は「文化と効率性のジレンマ」についてだった。そこでちょこっと話題に上がったのが、厳密性について。ぼくらはデータ（数字）を援用して未来を予測するが、そのデータ自体の厳密性（正確性）が担保されなければ無論予測も厳密でなくなるということ。（というか、出演者である京大の先生曰く、ぼくたちが絶対視する1,2,3…のような数字自体が、意外と抽象的で不明瞭な存在であるらしい。）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今回の件で世論調査、つまりデータ（というか人間心理）の不確実性を露呈することになりました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それより、ニッポンのジレンマって番組、知的好奇心を揺さぶられるおもしろい番組です。おすすめ。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Wed, 23 Nov 2016 15:06:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771232</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>ESSAY</category></item><item><title>残業させる前に</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771228</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;過労自殺、長時間労働、働き方改革…そんな言葉をよく聞く。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そもそも業務量が増えたならば、”安易に”残業で対処しようとする考えはどうなんだろう。”まず”は、時間あたりの生産効率を上げることを考えるべきじゃないのか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;大勢かつ異様に長い会議を減らすこと（効率化すること）、組織内のコミュニケーションを円滑化精緻化することで無駄な仕事を減らすこと（例えば、上司の業務の指示が曖昧なばかりに、部下が上司の期待外れの仕事をしてしまい、やり直しを食らい、結果的に残業につながるという場合はよくあると思う。（原因は、指示の確認を怠る部下にももちろんある。）このような事例も、両者の間で業務内容に関し、適切なやりとりが施されていたならば、防げる事案）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、何が言いたいかって、日々の業務の無駄はたくさんある。それを野放しにして短絡的に残業を促す経営者というのは、自ら経営を放棄していると言える。無駄の効率化。それが経営者の腕の見せ所かつ醍醐味ちゃうんかい。って思うのですが。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Wed, 23 Nov 2016 15:05:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771228</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>POLITICS/BUSINESS</category></item><item><title>森のリッラクス効果と抽象絵画</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771216</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;img src=&#34;https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/5313db0946e748bfd4937ce2f2dece74_0086093d4f091dc64c7a08f938a02d60.jpg?width=960&#34; width=&#34;100%&#34;&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#xA;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;森や林を見ているだけでリラックス効果があるというけど、一面を絵の具で覆われた抽象絵画にもそれがあるという説。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;遠景で森を見たときのモジャモジャ感(無数の葉っぱや枝がつくる迷彩柄)は科学的に数値化できるらしく、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;森のモジャモジャ感と一面絵の具まみれの抽象絵画のモジャモジャ感の数値は似ている。従って、訳の分からん抽象作品に心奪われるのは、人間が自然に惹かれるのと同じ原理。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ってのをずっと前テレビでやってたのを、森林植物園を散策していたら、ふと思い出した。これめっちゃ面白くない？&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 18 Nov 2016 15:49:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771216</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category><enclosure length="0" type="image/jpeg" url="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/235350/5313db0946e748bfd4937ce2f2dece74_0086093d4f091dc64c7a08f938a02d60.jpg"></enclosure></item><item><title>国家的分断について(1)</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771205</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h2&gt;＊これからは日本人が政治に関心を抱くようになる？&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;トランプ氏が次期大統領に決まったことによる日本への影響のなかで、ぼくが一番関心を抱いているのがマスコミも頻繁に伝えている通り日本の国防についてです。（トランプ氏は、日本の核保有の容認、在日米軍の撤退を示唆していたり、駐留費の引き上げを日本に求めている）&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、アメリカの核の傘によって担保されていた日本の安全保障が不安定になっているのです（報道を見ていると、撤退まではさすがにしないというのが大方の予想ですが…。ちなみに、ずっと前にも書いたけど憲法９条は、日本側から戦争を”起こさなかった”理由にはなっても、戦争が”起きなかった”理由としては十分ではありません。当たり前ですが、他国は日本の憲法９条を守る必要性がないからです）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのため、今後は日本の安全保障問題とセットで憲法改正に関する議論も高まってくるのではないかとメディアも予測しています。最終的には国民の直接選挙で決まる憲法改正手続きの性質上、今後は一部の政治家やマスコミだけでなく、国民ひとりひとりが政治的議論に前向きに関与していくでしょうし、そうでなっていかなければならないと思います。&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;＊一方で心配なこと。。&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;それはたぶん喜ばしいことかもしれませんが、ぼくにはひとつ憂慮があります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今回のアメリカ大統領選やイギリスのEU離脱問題に関する報道を見ていると、国家の深い分断を強く感じます。同じ国に住む仲間であるはずなのに相手に罵声を浴びせたり、暴力的なデモを行っている映像を見ていると、げんなりすると同時に「この人たち、政治にすごい深く関わっているな」って思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくが言いたいのは、こうです。国民が政治に関心があればあるほど、国家が乱れるんじゃないかってことです。もっと言えば、国家を二分し互いに憎悪を深め合うんじゃないかって心配をしています。その点、今の日本は他の国々と比べると政治に無関心の人が大半（もちろん確証はないですが、肌感覚で）で、それが理由なのか国内はいたって平和です。そこで極論すると、国民を政治に対し、無知・無関心のままにさせておく方が、少なくとも国内情勢に関しては平穏を保てるのではないか、っていう仮説が成り立つとぼくは思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、冒頭で述べた通りトランプ大統領就任を機に日本の国防問題（→憲法改正問題）はこれまで以上に俎上にあがるはずであり、国民の政治的関心も高まることが予想されます。それは、日本でも国家的な分断を生む引き金になるんでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;国家的な分断を引き起こしてでも国民レベルで議論を行わなくてはいけない問題が必ずあるに違いない、とも思うのですが。。そう考えると政治はすごく難しい。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 12 Nov 2016 14:59:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771205</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>POLITICS/BUSINESS</category></item><item><title>ちょっと一言</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771199</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;約１年にわたる長いアメリカ大統領選が終わりました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくが政治に関心を持ち出したのも、ちょうど1年ほど前くらいなので何だか勝手に感慨深い気持ちになっていました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;まあそんなことはどうでもいいとして、結果はトランプ氏になりました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今回はちょっと気になったことだけ少しだけ書いておきます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、トランプ氏が次期大統領に決まったことを嘆く、アメリカのセレブリティたちのコメントです。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;＞フォロワー数世界一の約９４００万人を誇る歌手ケイティ・ペリー（３２）は「ずっと座っていてはいけない。泣かないで動くんだ。嫌われ者が率いる国にはしない」とツイート。歌手マドンナ（５８）も、ツイッターで「新たな火が付いた。私たちは決して諦めない。そして決して屈しない」などと抗議の言葉を投稿した&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;（もちろんこれらの発言は、差別的な発言をするトランプ氏本人”のみ”を意識したコメントであるとは認識しつつも、）この発言によって間接的にはトランプ氏を支持する何千万の人々までを否定していることを、このセレブリティの人たちは分かっているのか心配になりました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ブレグジットのときは、労働者階級向けの大衆紙などが、高級紙と拮抗する形でEU離脱を唱えていた。一方、今回の大統領選において、現地マスコミ各社ほぼ全てが反トランプだった。にも関わらず…の事態を重く受け止めねばならないと思います。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 12 Nov 2016 14:58:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771199</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>POLITICS/BUSINESS</category></item><item><title>国家的分断について(2)</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771210</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;h2&gt;＊国家的分断を起こさないために&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;じゃあどうしたら分断を回避できるっかていうと、ひとりひとりが批判を受け入れることだとぼくは思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;護憲派が多く集まる小規模な勉強会で、ぼくが改憲を唱えたときの、唐突に訪れた場の異様な静まり具合と無表情で睨みつけるようなぼくに対する視線の怖さっていったらもうなんかすごかった。一方で、どこかの改憲派集会において護憲を唱えた結果、ぼくと同じような経験をした人もいたに違いない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もっとも、こんな経験なんて全然ましなほうで、社会では自分とは違う意見の人に対し暴言や暴力を行使する人もいることを思うと、本当につらい。ぼくが思う批判を受け入れず偏執狂的に政治信条を持っている人々に感じる気持ち悪さは、同じ意見の人々で集まり互いに持論を褒め称え合う賛同他者を用いた同時多数的なマスターベーション行為と、我らこそが”唯一”の正義だと言わんばかりの内輪的ノリの世間知らずさ、並びに批判に対し過敏に反応してしまう５歳児並みの精神的な幼稚さにある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;まあ上記文章こそがもはや暴言でもあるので、ぼく自身にも気持ち悪さはあります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、やはりぼくたちはもっと寛容でいなければならないと思う。批判に笑って対処できるような広い心を持っていなければ冷静な議論もできません。ぼくも含め国民全体が、今すぐそうなることは無理かもしれないけど、目指すべきところではあると思います。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Fri, 11 Nov 2016 15:01:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771210</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>POLITICS/BUSINESS</category></item><item><title>振られることを恐れる女々しいビジネスマン</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771195</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;「データ、データ」ってよく聞きます。ポイントカードやSuicaも、ぼくたちの年齢、性別、消費動向などを集めてビッグデータ？として、新商品開発のためのマーケティングの材料に使っているとか聞きます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「◯◯（場所）に居る若者は◯◯をよく買ってるぞ。それならこんな商品作ってみたら売れるんじゃないか！」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;このように大人の人たちはデータとにらめっこして、自分たちの未来予想図を作ろうとしています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これは合理的だと思うし、一定以上の効果は発揮しているとぼくも思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、自分自身大学のビジネスコンテスト的な授業で、先生や企業の人から浴びせられる「データは？提案に対する裏付けはあるの？」という質問が、なんか嫌いでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そもそもデータで予想できるほど人間は単純ではないし（できるのであれば赤字企業なんて存在しないはず）、データで簡単に予測できることは面白くない（驚きがないから。予想＝期待の範囲内を超えないから）と思っていたからです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;あと、自分自身が気になる商品やサービスは、「データが〜だからこれは売れる！」の発想から生まれた商品より、「これはぜってー楽しいしおもろい」とまず作り手側自身のワクワクが伝わって来る商品のほうが好きになることが多いからです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その思考って、「市場や消費者の思いを第一に考えましょう。」っていう大学時代経営学の授業で正義なものとして習ったマーケットイン思考とは相反するものだけど、これからは、というか既に、巷でいうイノベーションみたいなものは、「俺、告白しても、絶対振られないよな？」と友人伝いに確証をしきりに得ようとするような女々しいビジネスマンより、自分の思いをストレートに伝えようとする職人気質の人々から起こるんじゃないでしょうか。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Sat, 05 Nov 2016 14:56:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771195</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>POLITICS/BUSINESS</category></item><item><title>お酒と夜</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771188</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;お酒と夜&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これ以上ない組み合わせ。「カレーと福神漬け」と相性の良さは同レベルにしても、語感と絵づら（おしゃれさ？）では「お酒と夜」には到底およばない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくがこの組み合わせを好むいちばんの理由は、会話の深度が一気に増すからだ。お酒も夜も、人を饒舌にさせたり、感傷的にもさせる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ジョッキ三杯もあれば心地よい浮遊感を感じられる。その浮遊感は身体的な意味だけでなく、たぶん心に重く縛り付けられていた思いまで、軽くしてくれる。そして、ぼくらから視界を奪い去る夜は、外側の景色に与えられていた視線を、自然と自分の心の内側へと落とさせる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だから、お酒と夜には、心のなかの思いを軽くしてくれ、それを拾いやすくしてくれる力がきっとある。こうして、普段言えないことを言えたり、昼間に話したらクスッと笑われそうなかっこつけたセリフも吐けてしまえるし、聞く側としてもそれの耳触りが案外良かったりする。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これからの人生について、心に残るだれかの言葉について、自分の好きな小説、友達にぜひとも見てもらいたい映画、意味深げな詩の真意について、ぼくらの将来の行く末を左右し兼ねない日本や世界の政治について、ときには「好き」とは何か、「アート」の定義についてなど、高尚で哲学的でインテリぶった話題を、真剣に話せてしまうのがお酒と夜のいいところなんじゃないかって思います。そして、そんな会話をしている瞬間が、一番楽しいってぼくは思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これからさらに夜は長くなります。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Tue, 25 Oct 2016 14:55:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771188</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>ESSAY</category></item><item><title>星野道夫の『旅をする木』</title><link>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771183</link><description>&#xA;&#x9;&#x9;&lt;div&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&#x9;&lt;p&gt;海はしょっぱい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんなこと知っていたけど、ぼくにとって、それはあくまでしょっぱい「らしい」ということでしかなかった。サーフィンをして自分の顔面を海面に叩きつけるように転んだとき初めて、自らの感覚として海がしょっぱいことを感じた。知識が感覚に、そして体験に変わった瞬間だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんな些細なことから、自分に視覚が備わっていることに感謝せずにはいられなくなるようなきれいな朝焼けを見て、ぼくはその日から何となく”自然”に対し関心を抱くようになった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんなとき書店で手にとったのが、探検家で自然写真家の、星野道夫の『旅をする木』だった。この人の名前だけは以前から知っていた。最近BRUTUSやCoyoteなどの雑誌で特集をされているのを目にしていたから。そして、小学６年の妹の国語の教科書に教材として氏の随筆が掲載されており、よく妹が宿題として家で音読していたからだった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;偶然開いたページに、こんな文章があった。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;ある夜、友人とこんな話をしたことがあった。私たちはアラスカの氷河の上で野営をしていて、空は降るような星空だった。月も消え、暗黒の世界に信じられぬ数の星がきらめいていた。時おり、その中を流れ星が長い線を引きながら落ちていった。&lt;br&gt;「これだけの星が毎晩東京で見られたらすごいだろうな。夜遅く、仕事に疲れた会社帰り、ふと見上げると、手が届きそうなところに宇宙がある。一日の終わりに、どんな奴だって、何かを考えるだろうな&lt;br&gt;いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって」&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;何気ない文章なのかしれないけど、やわらかいタッチの文章に惹きつけられた。そして何より、自分も「どうしたら伝わるんだろう」と一瞬立ち止まらずにはいられなかった。その文章の続きが気になって仕方がなかった。それなのに、ぼくはそこで本を閉じた。その続きを立ち読みで済ましてしまうのが何だか勿体無い気がして、家でゆっくり読もうと思ったからだった。何よりその文章を読んだだけで、全ページに期待感が充満した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;続きはこうだった。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;「・・・もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって」&lt;br&gt;「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いてみせるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」&lt;br&gt;「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって。その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」&lt;br&gt;&lt;p&gt;人の一生の中で、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。この世へやって来たばかりの子どもへも、去ってゆこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;ぼくはこの本を買ってから、少しこの人のことを調べてみた。1952年生まれであること。今年で没後２０年になること。テレビ番組の撮影のために立ち寄ったカムチャツカでクマに襲撃され亡くなったこと、アラスカに魅せられていたこと。何でもいいからもっと彼のことを知りたくて、妹のランドセルから国語の教科書を引っ張り出してきて、掲載されている氏の文章も丸々目を通した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;高度に文明化された、そして「人と人とのコミュニケーションが大事だ」と喧伝される現代社会を生き抜くぼくらに、ちょっと足を伸ばせば自然があること、コミュニケーションの相手は必ずしも人じゃなくてもいいじゃんってことを思い出させてくれる本です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;キャンプ道具持っている人もしいれば、近くの山でも一緒に行きましょう。&lt;/p&gt;&#xA;&#x9;&#x9;&lt;/div&gt;&#xA;&#x9;</description><pubDate>Wed, 21 Sep 2016 14:54:00 +0000</pubDate><guid>https://writeitdown.amebaownd.com/posts/1771183</guid><dc:creator>なかむら</dc:creator><category>CULTURE</category></item></channel></rss>